ゆりかごの中で
梅雨はもう明けていた。なのに雨は降り続いていて、熱と湿気をはらんだジメジメした空気が身体の輪郭をなぞる。背中にピッタリと張り付いてくるYシャツの感覚は、私に逃げ場がどこにもないことを告げているかのようだった。何か音を聞いていたい。まとわりつく不快感を振り払うように机の上のリモコンを取り、テレビをつける。薄暗い部屋を液晶から放たれた安っぽいブルーライトの光が照らす。眩しさに目を細める。誰が買うのかわからない掃除道具の通販番組がやっている。テレビから発せられる光が作る影の大きさは、私の身体にのしかかっている重力を浮き彫りにしている様で寒気がした。二人掛けのソファにもたれかかって、目を閉じる。反芻が始まる。
そこには確かな理由があったわけでは無い。わたしたちの間には明確な理由がなかっただけだった。焦点深度の浅くなった私の視界は、いつからか彼の表情さえ観測することができなくなった。彼も同じように、繰り返される毎日の中で感受性をすり減らし、色の無くなっていく世界で私のことを見つけるのが困難になった。こうして、実った果実がやがて重力に逆らうのを辞めて地に落ちるように、緩慢で意味のない生の中で私たちはお互いの世界からお互いを見失った。
いつからだったのだろう。天国なんてどこにも無いと気づいたのは。
柔らかい毛布のような暖かさと安心は、見渡す限り永遠に続いている。
彼が遠回しな比喩をやめられない様に、私もまた天国を探すのをやめられない。
天使になってみたい。そこに重さは無いはずだから。天使になってみたい。羽があれば、終わりのない空に登っていける。天使になってみたい。溶ける様に宙に浮いて、光みたいに薄く広がっていく。天使になって・・・。
目が開く。背中に感じる硬い地面の感触と身体中に蠢く倦怠感。いつのまにか眠っていたらしい。操作を失った私の身体は重力に従って地面に横たわっていた。またここにいる。光から目を背けたくて、重たい身体を動かしてテレビとは反対側を向く。頬にフローリングの冷たい温度が流れ込んでくるのを感じる。頬を通して地面に逃げていく体温と一緒に、視界が滲んで、いままで見えていたものが滲み出ていくような感覚になる。ずっとこうしていれば終われるな、と鈍く霞がかった頭で考える。また重力が強くなる。目を閉じて、明日の予定を思い出す。テレビの音が聞こえる。雨は降り続いている。体温の下がった指は、天使の羽を探していた。