不機嫌なチェシャ猫
二月半ば、チェシャ猫の様子がおかしくなった。生後三ヶ月で一緒に住み始めてから、一度だって自分のトイレ以外で粗相をしたことがなかったのに、その日、家の片隅にちょこんとウンチがあるのを発見した。
チェシャ猫のトイレはお風呂場の一角。アリスの長風呂でお風呂場のドアが閉まっていて、多分我慢できなかったのだろうと笑いながら片付けた。
けれどもその日を境に、チェシャ猫はどんどん自分のトイレを使わなくなり、部屋のあちこちでこっそりと粗相をするようになる。この日からがアリスとシロウサギにとって頭を悩ませる日々の始まりになるのだが、実はチェシャ猫にとっての戦いはもうとっくに始まっていたのだ。チェシャ猫はもうだいぶ前から笑わなくなっていた。
思い返せばチェシャ猫にとって幸せではないことがちょこちょこと続いていた。例えば彼の主食であるカリカリ。
美食家であるチェシャ猫は、その平顔ゆえに食べる行為自体が大変なのか、とにかく決まったものしか食べない。ロワイヤルカナンの赤と緑の袋に入ったカリカリが定番で、この十年ずっと食べ続けてきた。それが去年の半ばごろから店頭に並ぶ数が減ってきて、年末には売っていたら買いだめするほど入手困難になっていた。
これは困った、でも同じロワイヤルカナンから出てるカリカリならきっと食べてくれるだろうと思い、似たような種類の小袋を試してみるが、食べてはくれるものの満足ではない様子。それでもなんとかお気に召してくれるカリカリを見つけ、数週間でチェシャ猫の主食問題は解決。
年末、アリスはチェシャ猫をシロウサギに預けて二週間ほど家を留守にする。チェシャ猫はシロウサギの家によく遊びに行って慣れていたので、平穏な年越しを過ごす。
アリスが家に帰って早々、マッドハッター主催のティーパーティにお呼ばれ。シロウサギとともに一週間程旅に出る。チェシャ猫はジャック王子の家でお留守番。慣れない家での日々を過ごす。
ご飯が気に入らない、主人が長期不在、自分の家じゃない……そんなことが続き、チェシャ猫はだんだんと笑顔を失っていった。
一月半ば、ジャック王子のところから名残惜しまれつつ家に帰るとき「いつできたのかわからないんだけど、胸のあたりに大きなかさぶたがあるんだよ」と言われて触ってみると、ミンクのようなやわらかな被毛の中に親指の爪ほどの大きさの異質なカサカサがある。どうしたんだろう?と思いつつ、もうかさぶただしすぐに取れるだろうと思い、そんなに気にしないでいた。
アリスとチェシャ猫は旅から戻ってシロウサギの家に住み始める。引越しは、二、三ヶ月かけて徐々にアリスの家からものを移動するという段取りになった。
アパートを片付け、アリスの家からのものも増えてきた頃、チェシャ猫が犬みたいに後ろ足で首回りを掻いたり、しきりに毛繕いをしているのに気づく。美しい毛並みにはチラホラとフケが目立ち、身体中に小さなかさぶたができていた。
シロウサギがノミでもついてるんじゃないか?と心配する一方、アパート猫だからそんなことはあり得ない!年に二回お風呂に入るしと譲らないアリスは、異常なグルーミング(毛繕い)は引越しによるストレスだと決めつける。現に、数年前アリスとチェシャ猫が引っ越しをした時、引越し後ひと月ほどストレスでフケが出ていたと主張。しばらくしたらきっと治るよと、かゆみ止めの薬をつけたりブラシをしてあげる一方、白いフケに混じって黒いフケがあるのも気になるアリス。
そうこうするうちに粗相問題が勃発。チェシャ猫は自分でも悪いことをしているのがわかっているようで、どこにいても何か落ち着かない雰囲気を醸し出すようになっていた。いつでもビクビク怯えているような感じ。
粗相が続く間、チェシャ猫は時々オシッコすらしない日や、お腹を下しているような感じのウンチをしたりするようになる。グーグル先生によると、ひょっとすると内臓系の病気かも?!なんて恐ろしいことが書いてあったりして、どんどん不安になるアリス。実際、チェシャ猫は食べたものを何度かもどしていた。一度獣医さんに診てもらった方がいいよとシロウサギが言うほど、笑うチェシャ猫は笑うことができなくなっていた。
二月末、チェシャ猫のお腹にブラシをかけていたアリスは、ミクロサイズのミミズみたいなものがものすごい速さで被毛の間を動いているのを発見する。捕まえようにも小さすぎ、速すぎた。アパート猫にはノミがつくはずはないと信じていたアリスは、一瞬幻を見たのかと思った。それはノミの幼虫だった。
すぐに獣医さんに予約を入れ、ノミとりシャンプーでチェシャ猫を洗う。洗った後のお湯の中にはノミの死骸が数匹浮かんでいた。ノミに効くという薬をチェシャ猫の後頭部につける。額には、ストレスによる小さな脱毛部分がいくつかできていた。
獣医さんの診断は特別なものではなく、ペットにノミがつくのはよくあることだから心配しないでと、何種類かの薬を処方してくれた。粗相の問題に関してはきっとノミ問題が解決すれば治るだろうとのこと。でも、ノミの完全駆除は数カ月かかるからねと釘を刺される。
とりあえず問題がノミであったという事がわかり一安心したけれど、成猫になってからずっと四キロという体重をキープしていたチェシャ猫が五百グラムも痩せていたのにはショックだった。
その日から毎朝、ノミとり櫛で念入りにチェシャ猫の毛をとかすのがアリスの日課になる。ノミは数日に一匹か二匹の割合で櫛に引っかかり、日を追ってだんだんと少なくなっていった。ノミを見つけても潰してはいけないらしいので、熱湯に中性洗剤を混ぜたお椀を用意し、櫛に引っかかると容赦無くその灼熱地獄にノミを投獄した。シロウサギもノミを見つけると火をつけて燃やすほど、チェシャ猫を苦しめていたノミに対する憎しみは強烈だった。面白いことにノミとりシャンプーで洗ってあげた日からしばらく、ベッドで一緒に寝ることのないチェシャ猫は感謝の気持ちを表現しているのか、毎晩朝まで枕元で寝るようになる。
その頃、チェシャ猫はもう完全にトイレを使わなくなっていたので、定位置のお風呂場から粗相する場所にトイレを移動。台所の片隅でもよくするので、そこにもう一つトイレを投入。たまにトイレを使っても砂もかけずに一目散に走って逃げるという奇妙な行動を取っていたので、時々そのあたふたしてる様子を見て笑って和んだりもしたけれど、トイレを増やしてもトイレ使用率は下がる一方……。
ノミ問題も粗相に関しても目にみえての回復が全くわからないまましばらく経過。アリスが十日間程家を留守している間にチェシャ猫はおしっこもウンチもしない日が増えたり、食べたものをもどしたりと、症状が悪化。シロウサギが獣医さんに連れていって、今度はおしっこ改善をメインに薬を処方してもらう。
四月頭、薬を飲みはじめてから十日間ほどたち、アリスも家に戻って数日経過した頃、アリスとシロウサギが観ている目の前でチェシャ猫が血便をする。しかも自分のご飯のお皿のすぐ横で。これはもうとんでもない病気なのではないかとパニックに陥るアリスとシロウサギ。獣医さんの処方してくれた薬はどうも何も効果がないようなので、別の獣医さんに連絡。症状を話したら二時間後に来てくれとのことで、すぐ先生に診てもらえるとホッとしつつも、ヤバイ状況だからすぐ来てくれということなのかも?と不安になる。
獣医さんがチェシャ猫の身体をさわって検査している間、今までの過程を説明。ここに至るまでに二度ほかの獣医さんにも診てもらったけれど、全然よくならないから、ひょっとすると何か病気にかかっているのではないかと聞くと、「単なる引越しによるストレスね」と一言で片付けられてしまった。
今までずっと粗相して訴えていたのは、引っ越して落ち着かないよーというメッセージだったのだ。カリカリの問題も、ノミ発生も、不運の偶然が重なっただけで、チェシャ猫にとっての一番の大問題は引越しだったのだ。
処方された薬は五種類。そのうちの一つはフェリウェイという猫のフェロモンを人工的に発生させてリラックス効果をもたらすというもので、猫によっては効かなかったりもするらしいけれど、マタタビ好きのチェシャ猫には効果てきめんだった。粗相しはじめて以来、いつもなんだかおどおどしていたのが、とろんとした表情になり、フェリウェイ設置場所から近いリビングのテーブルの上で一日の大半を過ごすようになる。
けれども粗相問題はそれから数週間治らない。唯一の変化は誰も観ていないときに、自分の居場所(リビングのテーブルの上から動かないのでタオルをしいてあげた)でだけ粗相をするようになる。大抵の場合は朝起きるとテーブルの上のタオルがぐちゃぐちゃになっていて、それをめくると粗相した跡があるという感じ。
自分の寝床だというのに、トイレとしても使うチェシャ猫に頭を悩ますアリスとシロウサギ。テーブルの真下にトイレを移動したりもしたけれど効果なし。いつになったらちゃんと自分のトイレを使ってくれるようになるのかわからず、毎日汚れたタオルをノミ対策も兼ねて熱湯消毒する日々が続く。
四月末、粗相問題の不安を抱えたまま、アリスとシロウサギとチェシャ猫は十日間ほど旅に出る。フェリウェイを持ってくるのをすっかり忘れてしまい、旅先でのチェシャ猫の粗相が心配だったが、「借りてきた猫」「猫かぶり」ということわざを実体験することになる。いつもと違う環境だというのに、ビクビクしつつもチェシャ猫は旅先できちんとトイレを使ってくれたのだ。しかも毎回使用後はちゃんと砂をかけていた。「かわいい子には旅させよ」!
五月頭、旅から帰ってすぐ、大胆にもチェシャ猫のトイレをかつての定位置のお風呂場に戻す。チェシャ猫はその日は丸一日何もしなくて、また不安定な粗相の日々に逆戻りかと不安になったけれど、次の日からはトイレを使うようになる。旅先と同じく、ちゃんと最後は砂もかけて。
それから三ヶ月以上経つ現在、アリスは入浴中もお風呂場のドアを少し開けておくようになったのだが、今ではアリスがお風呂に入っていようがおかまいなしでチェシャ猫はトイレを使いに入ってくるようになった。
魅力的なふっくらした体型を取り戻し、丸い目を輝かせながらおもちゃで遊び、チェシャ猫はその笑顔を取り戻した。
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