赤毛のアン

 鬼滅の刃が日本ですごいことになってるらいのは耳にしていたけれど、ついにうちの母まで電話口で言っていることから、あぁ、ほんと日本ってこういうのすごいなぁと思うのです、が!わたしはここ数日、アニメ版の赤毛のアンにどハマりしてました。
 もうかれこれ50年くらい前のアニメになるんだろうと思うけれど、物語というのは本当に丁寧に作られて伝えたいものがしっかりと根底にあると色褪せないんだなぁと、最終話に近づくにつれて涙まで流してました。
 物語は今から130年くらい前のプリンスエドワード島が舞台。今のアニメとは違ってもちろんコンピュータを使ってない、まさに上手い人の手描きの背景の風景なんだけど、それがまたなんとなく詩的な雰囲気になっていて、プリンスエドワード島を旅したいと思わせてくれます。田舎が舞台で、それがまた自然豊かで美しい。都会にはようやく電気がきたところって感じで、移動は馬車、鉄道の便は日に一本くらいしかなさそうで、もちろん機関車。家に電話なんてもちろんなくて、田舎なもんだから隣の家との間隔は何キロ単位。時間の流れはほんの100年とちょっとであまりにも慌ただしく変わってしまったなぁと、特にインターネットのありがたさを感じつつ、なければよかったのになぁとも同時に思ってしまった。
 わたしが小さい頃に再放送で見た記憶はかなり褪せてしまっていて、なぜだかアンが髪を染めて大変になってしまうっていうのだけが印象的に残っていて、アンを引き取ったマリラはすごく怖いって思ってたんだけど、大人になった今になると、すごくじーんとくることをマリラとマシュウがアンがいない時に話してたりして、そういうのをほとんど直接アンに伝えないけれど、それがちゃんとアンに伝わっていて、アンはものすごくいい子に成長していくという、児童文学の鉄板みたいな作品。アニメの前半、アンの子供時代はちょっとアンの言動が突飛すぎて、セリフも大袈裟に言うものだから少々試聴に苦戦しましたけども、全50話もあるし、これといってすごい事件が起こらないのに続きが気になるように作られていて、ついつい次はどうなるの?って感じになってしまいました。でも、このちょっと大袈裟で退屈な子供時代を乗り越えるといきなりアンが落ち着いた大人の女性へと近づき、そこからはマリラとマシュウのアンへの愛情がどっさり伝わってきます。
 孤児院から男の子を引き取って、将来は年とったマシュウの手伝いをしてくれるという目論見だったのに、そこに間違ってやってきた痩せっぽっちな女の子。たくさんの人がきっと今にその孤児がひどいことをするにちがいないと思う中、しっかりと、でも愛情を受けて育っていく、ある意味動物の本能的な大切さが描かれているように思えました。(だって、動物って自分が産んでなくても何事もなく育てたりするでしょう?子犬とか子猫とか。)
 今のアニメには失われた、古のどストレートなセリフ満載だけど、ひたむきで真摯なごく普通の何事もない日常ばかりを綴った赤毛のアン、素晴らしかったです。確かにアンの台詞は詩的な単語を連発するのだけど、今のアニメみたいにこんなのいないよっていう奇抜な格好とか言葉遣いのキャラ設定なんていつからできてきたんだろうとも考えてしまった。必要なものはそういうのじゃなくて、心に響くものなんですね。それは、アンの時代も今も変わらないっていうのがよくわかりました。

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