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四辻で呼ぶもの(短編)

 兄の栄太と弟の慎也は、手をつないで暗い道を祖父の家に向かって歩いていた。道は舗装されておらず、ところどころでこぼこしていて歩きにくかった。
 左を見るとすぐに山の急斜面と深い林があった。細く曲がりくねった木が幾重にも重なり、目を凝らしても木立の陰で奥はまったく見る事ができなかった。右を見れば緩やかな下り坂があり、その先で水の流れる音がかすかに聞こえている。昼間に見ればこの坂の下にはとても綺麗な川が流れており、そこでたくさんの子供が泳いだり、魚釣りをしたりしている。しかし月明りしかない今は、その清らかな流れも夜の闇に溶けその姿を見る事はできない。
 祖父からはこの道を夜に歩いてはいけないときつく言われていた。何故か?と聞けばこの道には夜になると「良くないものがいるから」だと言う。
 実際に歩いてみると、この道には家はおろか街灯もない。かろうじて道と言えるものがあるが、それだって土を踏み固めただけのようなお粗末なものだ。加えて左右にはそれぞれ違った類の闇が迫っており、その中から何かが覗いているのではないかという錯覚を覚える。何か、「良くないもの」が…。
 しばらくすると十字路に差し掛かった。道の左側はまだ深い林が続いているが、道の右側は川を挟んで田んぼや畑があり遠くの方まで見通す事ができる。少し先には街灯もあり、先ほどよりも幾分か明るくなって栄太は少しほっとした。
 この十字路を真っすぐ進んでしばらく歩けばもう祖父の家である。ちょっと目を凝らせば、祖父の家の明かりも見えるかもしれない。
右の道はしばらく行くと舗装され街に続くトンネルへと続いている。二人はいつもこの道を通って祖父の家に来るのだ。
 そして、左に進むと薄暗い林があり、その先には古い神社がある。塗装の禿げた小さな鳥居と、今にも朽ちそうな社があるだけの、本当に小さな神社だ。栄太達も明るい時に何度か行った事があるが、昼でも木に遮られ日の光を通さず薄暗い。じめじめしているのに夏でもひんやりと冷たい空気が流れている。
 栄太はちらりと左に伸びる参道の奥を見てみた。昼間も薄暗い参道は、今は完全に真っ暗だった。周囲は栄太の背丈ほどもある雑草がそこかしこに生えているのに、奥へ向かって一筋伸びる細い道には何故か何も生えておらず、まるで毎日誰かが踏み歩いているみたいに固まっていた。
こんな寂れた場所に毎日、誰が?なんのために……——夜気の中歩いて、じっとりと流れる汗が妙に冷たく感じた。肌に張り付く服の感覚が気持ち悪い…。
「兄ちゃん、どうしたの?」
 立ち止まっているのを不思議に思ったのか、慎也が兄の手を引いた。
「いや、なんでもない」
 栄太は慌てて慎也の方を向いてそう言った。暗い道をずっと歩いていたから、色々変な想像をしてしまっただけかもしれない。早く帰って風呂に入って寝てしまおう——そう思って、栄太は真っすぐに歩き始めようとした。
「ねえ、あれだれ?」
 また兄の手を引くように慎也が聞いた。慎也の視線は先ほどまで栄太が見ていた参道の先をぼんやりと見ている。栄太もつられて、そちらのほうに視線を向けた。

 なにか、居た。
 
 参道の奥、細い獣道の先から何かがゆっくりと近づいてきた。ぱっと見は黒いぼろ切れをまとった人のようである。しかし妙な事にはそのぼろの先から伸びる手足は、まるで絵具でも塗ったみたいに真っ白だった。細長く伸びた白い両腕をゆらゆらと揺らしながら、参道をゆっくりと歩いてくる。
 そして、近づいてくるとさらに不思議なのは、それは後ろ向きに歩いてきているのだ。後ろを向いたまま、しかし確かにこちらへと近づいてきている。
 栄太はその異様な光景に、その場に固まって動けなくなってしまった。弟の方を振り返る事もできなかったが、慎也もその場に動かずじっとしている。
 アレはダメなやつだ——直感で栄太はそう感じた。アレが近づくたびに、全身の毛がぞわぞわと逆立ち、毛穴から変な汗がどんどん流れてくる。このままここに居たら、アレを見ていたら、きっと大変な事になる。
 栄太は何とか視線を外し、身体を祖父の家の方を向けようとした。しかし足が思うように動かず、まるで誰かに押さえつけられているみたいだった。視線を外してもアレは少しずつ、でも確実に近づいてきている事を感じた。
「慎也、早く帰らないとじいちゃんに怒られちゃうぞ」
震える声を必死で抑えながら、栄太は弟に話しかけた。慎也から返事はないが、さっきから力いっぱい握られた手は小さく震えていた。
「ほら、早く行こう」
「うん……」
 二人は何とか平静を装って、何とかその場を立ち去ろうとあがいた。ずるずると引きずるように足を動かし、そちらを向きそうになる視線を必死に帰る方へ向けた。握る手はさらに力が入り痛いくらいだったがまったく気にならなかった。
 やっと身体が帰る道へ向き、二人はそちらへ歩き出そうとした。

「なあ」

 背後から声がした。栄太は振り返りそうになったが、慌てて思いとどまった。
 声は高いような低いような、おかしな音だった。若い女の人の声にも聞こえたが、年を取った男の人のようにも聞こえる。そもそも人の声なのか、何かの鳴き声なのか、それさえもわからなかった。しかし、その音が二人に向けて投げられている事ははっきりと分かった。
「兄ちゃん……」
 背後で慎也の今にも泣きだしそうな声が聞こえた。振り返ってやりたかったが、そうするとアレを見る事になってしまう。次にアレを見たら多分終わりだと栄太は思い、ぐっと堪えてそのまま足を進めた。
「なあ」
 さっきよりもさらに鮮明にその声が二人を呼んだ。川の音や林のざわめきは何故か聞こえず静かだった。静寂の中で、ソレの声だけが妙にはっきりと二人の耳に入った。
「…今日、楽しかったな!」
 栄太は振り返らず、恐怖を必死で抑えながら慎也に語りかけた。震えるのを我慢していたので、変なところで声が裏返ってしまったが、それでも一際大きな声で後ろの弟に話しかける。
「う、うん!」
「たこ焼きもさ、美味しかったよな!」
「うん!!」
 呼び声をかき消すように、二人は大声で話し続けた。足はさっきよりも動くようになってきている。あと少しで参道を通り過ぎて、帰路に向かう事ができる。

「なあ」

 耳元で声がした。自分のすぐ左隣、そこに、居る。細い体を曲げ、栄太の顔をじーっと見ている。思わず悲鳴が出そうになった。
「なあ」
 また耳元で声がした。かかる息は冷たく、湿った土の臭いがした。背中はもう汗でびしょびしょで、その汗がまるで氷のように冷たく感じられた。身体の震えが、怖いからなのか寒いからなのか、それももうわからなくなっていた。
「っ……帰ったら風呂入ってすぐ寝ような!!」
 すぐにでも泣き叫んで、この場から走り去りたいという衝動を必死に抑えて、栄太は会話を続けた。
「うん!!」
 慎也の声は、もうほとんど泣き声だった。震えが一層強くなったのを繋いだ手から感じながら、栄太は必死に足を動かした。その時である。

「ちがった」

 耳元でソレがそう呟いた。それと同時に今まで何とか動かしていた身体が急に軽くなり、一気に前へ進んだ。思わず前へ躓きそうになり、栄太は慌てて身体を支えた。
 気がつくと、すでに参道を通り過ぎて、見慣れた道路に出ていた。祖父の家へと続く道である。すぐそばの川のせせらぎが聞こえ、遠くで時折車の走り去る音もした。
「助かった、のか?」
 思わず呟いてから後ろを振り返ると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった慎也が立っていた。暗くてよく見えないが、プールにでも入ったみたいに汗で全身ずぶぬれでだった。きっと自分も同じような状態だな、と栄太は思った。
「兄ちゃん…アレ…なに…?」
 まだおさまらない震えを落ち着けるようにゆっくりと慎也は言った。
「わからない……」
 栄太はそう言うと、十字路のほうへ視線を向けた。十字路には今は何も立っていない。変な影も見えないし、おかしな気配も感じない。アレはもう居なくなったのだろうか。
 「ちがった」と最後に言っていたが、もしかしてアレは自分が見えていないと感じて居なくなったのではないか?だとしたら、もしあの時にアレが見えている、と勘づかれていたら……。
 途端に背筋がぞっとした。さっきの寒気がまた戻ってきたみたいに感じた栄太は、慌てて十字路から視線を離し、慎也を引っ張りながら祖父の家まで逃げるように走っていった。

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