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【番外編】花と龍の旅

   2023年12月初め、いつもの3人で北九州に出かけた。空路で博多へ入り、博多から小倉へ新幹線で向かった。小倉駅で待ち合わせである。まずは、駅近くの小倉城へ。松本清張記念館を横目に見ながら、小倉城に入った。映画のポスターが展示されているコーナーがあった。お城で映画のポスター? 何故かなと思ったのだが、説明を読むと北九州市は映画の街で数々の映画のロケ地になっていることが理由らしい。特に大きく展示されていたのは、「砂の器」「天城越え」「花と龍」「復讐するは我にあり」の4作品で、北九州シネマサロンがこれまでに主催した映画会の手書き絵看板だった。「砂の器」「天城越え」は松本清張、「花と龍」は火野葦平、「復讐するは我にあり」は佐木隆三の原作をもとにした映画である。いずれも、北九州に縁のある作家たちだ。手書きの絵看板には昭和の香りが漂っていた。似ているようでどことなく似ていない俳優たちの顔貌が、なんとも言えずにいい。その昔、映画館の前の絵看板に見とれ、思わず立ち止まって「ゲーリー・クーパーとイングリット・バーグマンのリバイバル映画、来週の金曜日に封切りか・・・。(ちなみに私が初めて見た洋画は、リバイバルで上映されたゲーリー・クーパーとイングリット・バーグマン主演の『誰がために鐘は鳴る』だった。)」などと心の中で呟いていたことを思い出す。リバイバルは封切りとは言えないかもしれないが、封切りなんていう言葉も最近は聞かなくなった。絵看板を見て、昔を思うのは、ノスタルジーといえばそれまでだが、時間をかけた手作りの風合いには、体に馴染んだコートが肩を優しく包むような温かみがある。

懐かしい手書きの絵看板

 2024年は龍の年だからというわけでもないが、「花と龍」の絵看板に目がいった。渡哲也と香山美子が、主人公の玉井金五郎と玉井マンを演じた映画である。「花と龍」は、このほかにも、藤田進と山根寿子、石原裕次郎と浅丘ルリ子、中村錦之助と佐久間良子、高倉健と星由里子などそうそうたるメンバーで映画化されていて、絵看板4作品の中ではおそらく一番多く映画化されているはずである。金五郎とマンの人生がいかに波乱万丈で、ドラマチックなものだったのかがよくわかる。しかも、二人は火野葦平の両親で、ほぼ実話なのである。改めて原作を読み直してみると、金五郎夫婦の波乱万丈の人生は壮絶である。二人は1906年(明治39年)に石炭荷役請負業「玉井組」を設立し、若松港での石炭の積み込み・積み下ろしを行っていたが、気の荒い人たちの中でいかに真っ当に仕事をすることが大変だったのかがわかりやすい文章で書かれている。喧嘩は嫌いだという金五郎だが、命を落としかけるような争いに巻き込まれながらも、筋を通して仲間と沖中士たちの生活を守っていった。映画化されるのもうなずける。金五郎は、腕に彫り物を入れているのだが、その絵柄が花と龍なのである。禅宗寺院の天井画や襖絵の絵柄では龍の手は珠を掴んでいるのだが、金五郎は若き頃のマンとの思い出である菊の花を持たせて欲しいと注文をつけた。若気の至りで刺青を入れてしまったいきさつもあって、人目に晒すことを避けていたという。それでも、山笠祭の時、玉井組のある十二区の山車には、花と龍が飾られた。原作には、その山車のことが次のように書かれている。

 「山笠には、一匹の巨大な龍が、中央の岩をぐるぐる巻きにして、天を睨んでいる。顔だけが三尺ほどもあり、蛇腹のついた胴の回りが、やはり三尺、ガラスの大眼玉、棕櫚の頭髪、真鍮の角、鱗には、薄板を使って、すさまじいばかりの出来栄えであった。そして昇り龍は、両肢に、右に菊、左に百合の花を、掴んでいる、十二区の山車といっても、実際は玉井組の山車と言っても良かった。」

 龍は龍神と言われるとおり、水に潜んで、空を飛び雲を起こし雨を呼ぶ霊力を持っている。守神なのである。花と龍がすさまじい荒波から金五郎一家を守る役目もしたのだろう。玉井組は、明治、大正、昭和の動乱をくぐったが、昭和17年国家総動員法による企業整備の中で強制的に解散させられ、金五郎は涙を飲んで解散を受け入れたのだった。その波乱万丈の人生は時代を超えて話題を呼んだわけだが、現代風にアレンジされて再び映画化されるらしい。2023年7月27日の北九州市市民文化スポーツ局のプレスリリース資料に、

 「北九州市若松出身の芥川賞作家火野葦平ひのあしへいさんの小説『花と龍』が、この度、令和版として現代風に演出されて映画化されることとなり、11月から北九州でロケが行われます。その報告のため、映画に出演する俳優の岩城滉一氏及び関係者が7月27日に北九州市役所を表敬訪問します。」

 とあって、『花と龍』が今の時代に蘇ることを伝えている。公開予定は2024年〜2025年となっている。昭和とは違った切り口で映画化される令和の「花と龍」の「封切り」が楽しみである。

 博多へ行くと、太宰府近北側の水城に眠れる龍がいた。「花と龍」の時代から約1300年前、倭は百済支援のために朝鮮半島に出兵し唐・新羅の連合軍と戦ったが、白村江の戦いに敗れ日本に逃げ帰った。唐・新羅からの逆襲を恐れた倭は、664年(天智天皇3年)太宰府を守るために博多側に約1.2kmにわたって「水城」と呼ばれる土塁と濠を築き、東側の四王寺山尾根につなげた。攻めてくるかもしれない唐と新羅軍を防ぐために大土塁を作ったのである。この土塁の高さは約10m、幅80m、博多側には幅60mの水濠を掘った。そして翌665年(天智天皇4年)には四王寺山に大野城を築いた。水城を龍の胴体とするならば、山上の大野城は龍頭に当たる。龍は大野城から水城となって西に体を伸ばし、さらに西側の谷間を小水城と呼ばれる土塁で埋め、基肄城へと繋がった。博多湾に向かって龍が頭をむけその胴体で敵を防ぐような形である。展望台から水城を眺めると、今では木々が茂った土塁が西へ伸び、龍の形がよくわかる。「土」が「成る」と書いて、「城」と読むのだから、城の起源は土塁なのだと想像がつく。小さな展示施設である水城館の係の方の話では、「大宰府の前身とされるミヤケは、博多駅の南東あたりと想定されてるんですが、海辺にあって防御が難しいので、海から離れた現在の場所に大宰府を移し、博多に上陸して攻めてくると想定された唐・新羅連合軍を水城でくい止めようとしたんです。」と言っていた。そして、もしも水城が破られたら大宰府機能を土塁や石垣で囲まれた大野城に移すことも考えたらしいと話してくれた。九州歴史資料館技術主査・学芸員の酒井芳司は、「水城・大野城をめぐる諸問題」で、次のように書いている。

 「天智天皇てんじてんのう2年(663)8月、韓半島西岸の白村江はくすきのえにおいて、百済くだら連合軍は、とう新羅しらぎ連合軍と戦い、大敗北を喫した。この結果、百済は完全に滅亡し、倭国も韓半島における拠点を失うとともに、唐・新羅から直接に侵攻される機会が高まった。これに対して、倭王権は、敗戦の翌年に対馬嶋つしま壱岐嶋いきのしま筑紫国つくしのくになどにぼう防人さきもりの守衛地)とすすみ(のろし)を置いたことをはじめとして、北部九州から瀬戸内海にかけて、朝鮮式山城・神籠石こうごいし式山城と呼ばれる防衛施設を構築した。これら防衛施設のうち、『日本書紀』によると、最も早く北部九州に築造されたのが、天智天皇3年(664)に築かれた水城みずきと、翌4年に百済の亡命貴族である達率だちそち(百済第二位の官位)憶礼福留おくらいふくると達率四比福夫しひふくぶを筑紫国に遣わして築かせた大野城と基肄きい)城である。・・・筑紫大宰つくしのたいさい(大宰府)の建物は直接的な防衛の対象ではなく、水城や大野城などの防衛施設を有機的に機能させる司令部の機能こそが重要であった。そのために筑紫大宰も、白村江敗戦後に博多湾沿岸の那津官家なのつみやけから現在の大宰府周辺に移転したと考える。660年代末に唐と新羅が戦争を始めるまでは、唐・新羅と倭国の対立関係が続く中で、倭国は最前線の対馬嶋の金田城かねたのき築城(667年)よりも、水城・大野城・基肄城による筑紫の国防拠点構築を最優先したのである。」

水城館に展示されていた鳥瞰図 博多、太宰府、大野城と水城の位置関係がわかる
展望台からの水城の眺め 中央の木々が水城の一部で写真の奥へ伸びている

 当時、博多から大宰府へ行くためには、水城の東西にある東門もしくは西門のどちらかの門を通る必要があり、その出入りは厳しかったようである。西門は鴻臚館に通じる公式な官道であり、東門は太宰府の役人や一般人が通る一般的官道となっていた。水城館は東門跡のすぐ近くに、土塁を模した丘の中に作られていた。入り口前には万葉集の歌二首が石に刻まれている。

水城館前にある児島娘子と大伴旅人の歌碑

 「おほならば かもかもせむを かしこみと 降りたき袖を 忍びてあるかも (児島娘子 あなたが普通のお方ならあれこれいたしますが、恐れ多いので 振りたい袖を堪えています)」

 「ますらをと 思へるわれや 水茎みずくきの 水城みづきうへに 涙拭なみだたのごはむ (大伴旅人 立派な男だと思っている私が、水城の上で涙をぬぐうことだろうか)」

 大伴旅人が任地である大宰府を離れるとき、東門まで送られ皆と別れを惜しんだときの歌だそうである。多くの見送りの人たちに混ざって、ねんごろになっていた児島娘子が「官位のある大伴旅人の立場を気遣って、袖も振ることも我慢しています」と歌い、旅人は「自分は立場のある男だが、水城の上で別れの涙を拭うことになってしまい、切ないことだ」と返すのである。大伴旅人が長官として大宰府に赴任したのが727年(神亀4年)で、2年半ほど在任しているから、歌碑に刻まれた歌は730年(天平2年)ごろに読まれたことになる。唐と新羅は、663年(天智天皇2年)に白村江で勝利した後、百済や高句麗を滅ぼしたのだが、唐が朝鮮半島全体を支配しようとしたため新羅と対立することになった。660年代後半に入って、唐と新羅は武力衝突に至るが676年(天武天皇5年)に、新羅は唐を駆逐して挑戦半島を統一した。唐と新羅の対立によって、両国とも日本侵攻どころではなくなり、水城も大野城も大きな意味を失っていく。大伴旅人が大宰府に赴任したときには、唐や新羅が攻めてくるという緊張感は無くなっていたのだろう。水城は男女の別れの歌に詠まれるほど落ち着きのある風景になっていた。ありがたいことに、龍は眠り続けることができたのである。今、春になると、土塁には桜や菜の花が美しく咲くそうである。

 博多から佐賀平野へ向かった。そこには、長い眠りから目を覚ました龍がいた。大宰府の水城築城からさらに遡ること約1100年、弥生時代の前期初頭、紀元前5世紀から紀元前4世紀の頃、背振山の南にある佐賀平野に人々が集落を作った。土に埋もれていたその集落が、約2500年の時を経て昇龍のように世に飛び出したのだ。その龍が瞼をわずかに開けたのが1986年5月28日。吉野ヶ里遺跡の発掘調査が始まったのである。大正時代から、土器の破片などが見つかっていた吉野ヶ里には何らかの遺跡があるのではないかと言われていた。筑後川をはじめとする河川が有明海に流れ込む緩やかな南面斜面地は、稲作に適した肥沃な土地だったので、古代の人たちも目を向けたのである。吉野ヶ里に注目していた七田忠志を父にもつ七田忠昭は『邪馬台国のクニの都 吉野ヶ里遺跡』で父・忠志が考古学雑誌に投稿した文章を紹介している。

 「千古の扉を閉ざしている、筑後川下流の肥沃なる沖積大平野における貝塚群を見出す時、幾多の池溝に囲繞いぎょうされたる住居跡を見出す時、筑紫平野の文化的解剖も又其の重要性を失わないものであると思う。彼の継体天皇の時、筑紫国造磐井つくしのくにのみやつこいわいはいかにして反乱を勃起せしむる勢力を養い得たか。時あたかも、原始農業問題の云々されつつある折柄、我らの前途にその解決の鍵を与えんとするものは、我々のいう筑紫平野の研究ではあるまいか」

 筑後平野と佐賀平野を包含した筑紫平野には多くの古代遺跡があり、考古学者達は本格的調査を訴えていた。それでもバブル景気真っ盛りの時代には開発の波が進み、各地で記録保存の名を借りた破壊のための発掘調査が行われていた。吉野ヶ里の発掘調査も佐賀県の工業団地開発を行うための記録保存に向けた調査だったのだ。七田忠昭は佐賀県教育委員会の文化財課に職を得ていて、奇しくも父が気にかけていた吉野ヶ里の記録保存のための発掘調査を担当することになった。前掲書には次のように書かれている。

 「私が関心をもって歩き始めた一九六〇年ごろ、吉野ヶ里遺跡がある丘陵の上の農道では、くぼみやわだちを埋めるために甕棺片や弥生土器片、石器の破片が利用されていた。江戸時代に石器が雷石とか雷斧とよばれたように、雨が降るたびにつぎからつぎに地表にあらわれるそれらの遺物は、しばらく畑の隅に集められていた。そこは遺物採集の格好の場所であり、耕作の邪魔者であるかけらのなかに輝くものを見出したときには大きな喜びを感じたものだった。・・・その吉野ヶ里遺跡を自分の手で発掘できる期待感と、発掘が終了したら壊されるという遺跡の運命とを感じながらの発掘調査となった。」

 しかし、調査が進むと次々と重要遺構や遺物が見つかっていったのである。多数の甕棺と人骨、竪穴住居跡、V字型断面の大規模な濠跡、巴形銅器の鋳型など、考古学的価値のあるものが次々と見つかっていく。考古学者も注目しだし、次第にマスコミも取り上げるようになった。そして1989年2月23日には、各社がTV・新聞で大きく取り上げたのである。七田忠昭は次のように書く。

 「NHKの朝七時の全国ニュースの冒頭は、翌二四日に執り行われる昭和天皇の大葬の礼についてであったが、その次に「魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の住んでいた集落とそっくり同じつくりの集落が佐賀県で見つかりました」とキャスターの声。朝日新聞は「邪馬台国時代のクニ 佐賀県吉野ヶ里 最大級の環濠集落発掘」と一面に大きくとりあげている。腰が抜けたように体が動かない。しばらくして涙が込み上げてくる。やっと、吉野ヶ里遺跡の名が全国に知れわたる! 当時は、このような重要な遺跡が世に知られないまま壊されてしまったら取り返しがつかない、一部でも保存ができないものか、密かに思っていた。」

 本書には、前日、前々日に奈良国立文化財研究所指導部長の佐原眞が佐賀入りして、現地でマスコミに吉野ヶ里の重要性について詳しく説明したことが23日の報道につながったということも記載されている。1989年2月23日は、龍がその眼を大きく開けて天に向かって昇り出した瞬間だったのだ。七田忠昭の言葉によれば、腰が抜けたように体が動かないと言うことだから、発掘調査の関係者の喜びも想像を絶するものだったに違いない。その直後には、墳丘墓の発見とその墳丘墓内の朱塗りの甕棺から、「類例まれな把頭飾はとうしょく付き有柄銅剣ゆうへいどうけんとあざやかに輝くガラス管玉くだたま」が見つかった。これを受けて、佐賀県は工業団地開発を中止して、吉野ヶ里遺跡保存へと舵を切った。当時の佐賀県知事の言葉も記載されている。

 「全国に誇れる遺跡だ。文化庁とも相談して、史跡指定をお願いしたい。環濠集落はもちろん、墳丘墓に至る区域も広範囲に残したい。」

吉野ヶ里歴史公園117haは、遺跡のある国営公園と周辺のレクリエーション施設の県立公園で構成される

 マスコミ報道によって全国に名前が知られ、発掘調査とはいえ多くの人が訪れるようになっていた。観光地の少ない佐賀県にとって、貴重な歴史的観光資源という側面も知事の頭をよぎったに違いない。「弥生時代における有力な首長層の確立や『ムラ』から『クニ』という原始国家成立過程を考えるうえで、欠くことができない重要な遺跡」ということで、異例の早さで1990年に史跡指定、1991年には特別史跡指定がなされた。今では、遺跡部分の国営公園と周辺のレクリエーションスペースの県立公園を一体化して吉野ヶ里歴史公園となって、年間70万人が訪れる観光地となっている。目覚めた龍にも想像ができなかったことに違いない。私たちが訪れた冬の夕方も、団体の高校生が来ていて、閉園間近の吉野ヶ里を足早にまわっていた。歴史的価値のあるものを見たという事実は記憶に残るから、大人になって価値を再認識して再訪する人もいるに違いない。まもなくクリスマスを迎えるということもあって、南内郭の広場には、色とりどりの小さな紙筒が沢山置かれていた。係の方に聞くと、「夜になるとこの紙筒の中の蝋燭に火を灯すんです。とても綺麗ですよ。」と教えてくれた。植え込みにはイルミネーションもあって、若い人たちのフォトスポットになっているという。多くの人たちに訪れてほしいという歴史公園側の想いは、パンフレットを見ても伝わってくる。勾玉づくり、火おこし体験、石包丁づくり、銅製作体験、有柄銅剣製作体験、銅鐸製作体験、巴形製作体験、「親魏倭王」印製作体験など、盛りだくさんのメニューがある。秋には弥生人に倣ってそば打ち体験も行われている。「弥生人の声が聞こえる」というキャッチフレーズに相応しい体験イベントが並んでいるのだ。それ以外にも、すべり台やトランポリン、グラウンドゴルフ、バーベキューができる野外炊事コーナー、動物ふれあい館などもあって、いわゆるみんなが楽しめる公園的な場所もある。親しみやすく多くの人に来てもらうということと、弥生人の生活を知ってもらうということの両立は難しいのだろうが、歴史公園側の強い思いは伝わってくる。俗に言う「吉野ヶ里効果」について、澤村明は小論『「吉野ヶ里効果」はあったのか?』で、単純な経済効果だけで議論すれば工業団地計画の方が高かったと試算するが、国費が投入され異例のスピードで「117haという広大な公園の整備を実現しえたのである。」と書いている。そして、多くの人が「吉野ヶ里遺跡」に行ってみたいと思っているのだから、本当の意味で「吉野ヶ里効果」をもたらす素材価値は十分にあるのだ、と指摘している。遺跡保存と観光は結びつきやすくもあるし、結びつきにくくもある。「吉野ヶ里遺跡」という龍は目覚めたが、「吉野ヶ里効果」という龍はまだ夜明け前なのかもしれない。試行錯誤を続けていくことになるのだろう。七田忠昭は前掲書の最後を、次の言葉で結んでいる。

 「遺跡と社会のこれからを考え、よりよいあり方を模索しづける遺跡になってほしい。」

閉園間際 駆け足で見て回る高校生

 弥生時代、吉野ヶ里では稲作と合わせて、そば作りも行われていた。もちろん今のような蕎麦の食べ方ではない。そば粥やそばがきというような形で食べられていた。吉野ヶ里遺跡公園には弥生時代を偲んでそばが植えられていて、秋にはそばの白い花が咲くという。吉野ヶ里の人たちも同じ白い花を見ていたかと思うと、2500年という時の流れがなんとも短く感じられてきた。冬の夕方、吉野ヶ里の風景を見ながらそんな感傷に浸っていたら、「もう直ぐ閉園です。出口はこちらからが近いです。」という係員の声が聞こえてきた。

 小倉城で見た花と龍の絵看板から、大野城・水城、吉野ヶ里へと想いが広がった。今回の北九州の旅では、書ききれないほど多くの古代遺跡や資料館・神社を訪れることができた。専門店の茶碗蒸し、蕎麦、ラーメン・餃子にビール、鰻、鶏ぼっかけ飯など、いろいろ食べた料理も美味しかった。歴史や地元料理を肴にして、龍年を前に北九州で楽しい話に花が咲いた。同行のお二方に感謝である!!

●『花と龍』火野葦平 岩波書店 2006年(初版は1953年)
●「北九州市市民文化スポーツ局のプレスリリース資料(2023年7月27日付)」・・・映画化の概要として「北九州市若松区が舞台になっている小説「花と龍」を令和に映画化! これまで時代劇で描かれてきた“玉井金五郎”スピリットを現代風に演出し、年代問わず広く多くの人が楽しめるエンターテイメント作品として映画化される。」と書かれている。
●「水城・大野城をめぐる諸問題」九州歴史資料館技術主催の・学芸員 酒井芳司 季刊「邪馬台国」第百二十六号に掲載・・・水城・大野城の築城時期には諸説あることが記されているが、本記載が通説とされている。
●「大宰府万葉歌碑めぐり」 太宰府市・・・日本で最も古い歌集『万葉集』には、約4,500首の歌が集められているが、そのうち大宰府や筑紫で詠まれた歌は約320首あるという。令和という元号は、大伴旅人が大宰府で開いた「梅花の宴」で読まれた梅花の歌32首序文(『万葉集』に掲載)から引用されている。
●『邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡』七田忠昭 新泉社 2017年・・・吉野ヶ里遺跡発見のプロセスなど、丁寧に書かれている。
●「吉野ヶ里歴史公園」パンフレット 吉野ヶ里公園管理センター 2023年
●研究ノート「『吉野ヶ里効果』はあったのか?」 澤村明 慶應義塾経済学会「三田学会雑誌」93巻2号(2000年7月)

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