聖スウィザン(スウィジン)についての覚書き
「アルフレッド大王聖地巡礼記 5日目(2)」で触れた聖スウィザン (または聖スウィジン/スウィズン, St Swithun/ Swithin)」について調べていたら長くなったので、忘れるのも勿体ないので、一旦ここに保存しておきます。
上記記事から分離したので、一部重複しています。
不完全で偏っており、過誤に満ち、読みづらいと思いますが、ご容赦ください。
(雑すぎるので、また後で書き足すかも知れません)聖人になった後に創作された奇蹟の数々については、ほぼ触れてません。
他の文献や研究書(下記)を参照ください。
◆まず読むべき研究書「The Cult of St Swithun」
聖スウィザン信仰についてのきちんとした研究書については、マイケル・ラピッジ (Michael Lapidge) 先生の「The Cult of St Swithun」(以下 "Cult")が大変詳しいので、そちらを参照ください。
2023年中に Archaeopress から復刊されるようです。旧版は国内の大学図書館も2館ほど所蔵。
※Google Booksでも一部プレビュー可能ですが…むにゃむにゃ
◆基本情報:聖スウィザンとは:
※「▶後述」とあるものについては詳細を後述します。
9世紀のウィンチェスター司教。
797~800年頃生誕。
表記は St Swithun/ Swithin (現代英語), Swīþhūn, Suiðhun (古英語), Swithunus/ Suuithunus (ラテン語), Swythun, Swithhun など。
日本語表記はスウィザン、スウィジン、スウィズンなどを観測。
852年10月30日にウィンチェスター司教に就任。アルフレッド王の父、エセルウルフ王が任命。
伝記によっては、エセルウルフ王に仕える前から「エグバート王(Ecgberht, アルフレッド王の祖父)の相談役、かつ息子エセルウルフ (Æthelwulf) の教育係だった」とされている。
(ただし現存する証拠はなく、後世の創作の可能性が高い)
上記に限らず、いくつかの教会関連や土地の供与などの文書、および854年以降のウェセックスのチャーター(王の勅令状/公式文書)の立会人として時々名前が出てくる以外は、生存中の実際の業績などについて書かれた文書/写本は現存しない/発見されていない。
また、チャーターの署名も、後年に捏造されたと思われるものが混じっている。
現在残っているエピソードのほとんど、特に「奇蹟」関連は、ほぼ後年の創作。
▶後述
幼少期のアルフレッド王の853年のローマ巡礼に同行した、という後年の記述もある。こちらも真偽不明、恐らく後付け。
▶後述
ラテン語能力が高かったっぽい。
(『司教就任時の宣誓書のラテン語が、同時代の他のアングロサクソン人の聖職者より上手い』 by マイケル・ラピッジ [The Cult of St Swithun, p.6])
ウィンチェスターの街の東・門の橋を石橋に建て替えた。
これは死後(863~971年頃?)に書かれた詩(=恐らく橋の碑文を写したと思われるもの)に記述があり、信憑性は高め。
現在のウィンチェスターの「聖スウィザンの橋/ St Swithun's Bridge」。
▶後述
橋の他にも、教会の建設や修繕に熱心だったとされている。
これは、スウィザンの時代=エグバート王~エセルウルフ王の治世で、彼等がそれらに熱心であり、またこの時代(9世紀)にウィンチェスターの街が拡大されたことなどが背景にあるかも知れない。 (e.g. Barbara York, ODNB, 2004)
後年、「スウィザンの日(7月15日)に聖スウィザン橋に雨が降ると、その後40日間雨が続く」などの伝承が生まれた。
▶後述
863年(861/862年記載もあり)7月2日死去。
死に際して「大聖堂の前の屋外に埋葬して欲しい」と遺言した、とされている。
遺言そのものは謙虚さアピールの創作くさいが、教会の入り口の外(西側)に墓があったのは確かで、1960年代の発掘調査で実際に当時の教会(オールド・ミンスター)の前に墓が見つかった。
▶後述
約100年後の971年前後、エドガー王/エセルウォルド司教 (Æthelwold) の修道院改革期に、ウィンチェスター大聖堂の守護聖人として祀り上げられ、イングランド南部を中心に信仰が広まった。
これ以降、「オールド・ミンスター」および後継の現ウィンチェスター大聖堂は、「聖ペテロ&パウロ&スウィザンの教会」などと呼ばれる。
▶後述
初期の聖人伝としては 10~11世紀の ランフレッド (Lantfred of Fleury) 版、ウルフスタン (Wulftan Cantor)版、アルフリッチ (Ælfric of Eynsham) 版 あたり。
(なお Goscelin of Saint-Bertin が書いた聖人伝が最初期、と思われていた時代があったらしいが、近年では否定されている)
スウィザンブームはアイルランド、フランス、北欧にも広がり、ノルウェーのスタヴァンゲル (Stavanger) などにも教会がある。
▶後述
遺骸はカンタベリー、ピータバラなど、国内外のあちこちに分祀/贈与/持ち出しされたが、ウィンチェスターの本体を含め、各国の宗教改革の際にほぼ失われた。
唯一現存が確認されているのは、フランスのノルマンディーは Évreux大聖堂(Notre-Dame d'Évreux)にある頭蓋骨(ただし法医学的調査はされていないっぽい)。
▶後述
♰シンボル:雨、リンゴ
♰アトリビュート(持物):司教の姿、割れた卵、橋
♰聖人祝日:7月15日
◆勅令状(チャーター)から見る、実際のスウィザン
現存する文書では、生前のスウィザンの直接的な痕跡は、チャーター(王の勅令状)内の署名、就任時の宣誓書(1件)、王からの土地供与書(1件)あたりのみ。
ラピッジの「The Cult of St Swithun」(Lapidge, 2003) によると、9件のチャーターに署名があり、854年が最も古いとしている。
過去の研究書では、例えば、
アングロサクソン時代のチャーターを網羅した「Codex diplomaticus aevi Saxonici」(J.M. Kemble, 1839~) では、833年、838年、860~862年のチャーターにスウィザンの署名があり、特に833年のマーシアのウィグラフのチャーターには
「♰私、エグバート王の司祭であるスウィザンが立ち会った (♰Ego Suuithunus presbyter regis Ecgberti praesens fui)」
と署名されている例が掲載されている。
引用元: Codex Diplomaticus eavi Saxonici toms 1 (vol. 1), No. 233 (CCXXXIII) UUiglaf, May 26th, 833 (署名は p.308 - Internet Archive )
※エグバート:アルフレッド王の祖父、王位800/802~839年
ただし、これ(833年)より後の838年のチャーターの署名に「Swithunus diaconus(助祭スウィザン)」とあり、地位が下がっていることから、833年の署名は信憑性に欠ける、または後年に書き加えられたものと見る研究者が多いようだ。
スウィザンが「エグバート王の顧問であり、息子エセルウルフのメンターだった」という記述が、後年のスウィザンの伝記に見られるが、
それを裏付けている(とおぼしき)上記のようなチャーターは捏造の可能性が高いため、後付けの伝説の可能性が高い、ということに。
【参考】チャーターへのスウィザンの署名がどれに/いくつあるかについては、Kemble Website内にある「Atlas of attestations」の一覧表(「 Tables」)も参照のこと。
→「West Saxon charters in the ninth century」項の「XIX Attestations of bishops in West Saxon charters of the ninth century, Pages 1-3 (of 3) PDF file)」内参照。
◆参照元(※一例であり、代表的なものではない):
1911 Encyclopædia Britannica/Swithun, St, Wikisource(内容が古い)
Codex Diplomaticus Aevi Saxonici (vol. 1)(Archive.orgにスキャンあり)
https://www.bl.uk/manuscripts/FullDisplay.aspx?ref=Cotton_Ch_VIII_29
◆「卵の奇蹟」と列聖の経緯
◆列聖の経緯
スウィザンは普通に司教を務めて普通に亡くなったっぽいが、約100年後のエドガー王治世下に、修道院改革ガチ勢のエセルウォルド司教(Æthelwold, 任期963~984年)とカンタベリー司教ダンスタン(Holy St Dunstan! のダンスタン)によって聖人に仕立て上げられた。
生前に起きた(とされる)唯一の奇蹟は、「割れた卵を元に戻した」逸話:
→ある貧しい女性(老婆)が、「スウィザン橋」の上で(スウィザン司教と予期せず出会って驚き)カゴに入れていた卵を落として割ってしまったが、スウィザンが元通りに戻した、というもの。
※場所やきっかけについては、街角であったり、建て替え中の「スウィザン橋」(後述)の建材につまづいて割ってしまった等、様々なバリエーションあり。
<死後>
死に際したスウィザンは「教区の人々と天からの雨の両方に触れられるように」屋外に埋葬して欲しい、との遺言を残し、当時のオールド・ミンスターの入り口の西側の屋外に埋葬された。
遺言そのものは後年の創作かも知れないが、この墓の位置は実際に発掘調査でも特定されている。
参考文献:The Search for Winchester’s Anglo-Saxon Minsters(PDF版あり)
<約100年後>
修道院キラキラ☆改革ガチ勢のエセルウォルド司教(Æthelwold, 任期963~984年)とカンタベリー司教ダンスタン (Dunstan) によって聖人に仕立て上げることになったため、お墓の周辺で様々な奇蹟イベントが発生。
971年7月15日、エセルウォルドはスウィザンの遺骸を(本人の希望に従って屋外にあった)墓から掘り起こして、オールド・ミンスターの屋内の祭壇のあたりに改葬させる。
スウィザンの命日は7月2日にも関わらず聖人祝日が7月15日なのは、このせい。エセルウォルドの自己顕示欲がすごい。
この時、「スウィザンの怒りに触れたのか」雷が鳴って雨が40日間続いたため、後述の「聖スウィザンの橋」の言い伝えができたらしい。
それでも聖人祝日を7月15日にするエセルウォルド。ブレない。
974年には、元の(屋外)の墓の場所に聖廟小屋を立て、エドガー王プロデュースのギラギラした聖遺物箱に遺骸の一部を納めた。
(流石に墓から掘り起こした事を少し気にしていたのかも知れない。)
エセルウォルドによるスウィザン先輩を聖人にプロデュース☆キャンペーンはなかなかエグく、スウィザンの墓の周辺で 1日に何回も(深夜にも)奇蹟イベントが発生し、その度に修道僧達は「何をしていようと問答無用で集合しなければならない」という縛り付き。
夜中にも何度も叩き起こされるので、ゲンナリした修道僧たちがサボったところ、夢の中でスウィザンに「それはアカンで」と言われ、やっぱり全員集合することになった…というエピソードもあったらしい。
◆聖スウィザン橋と雨
ウィンチェスターのイッチェン川 (River Itchen)にかかる「聖スウィザン橋 St Swithun's Bridge」は、859年にスウィザンが初めて石の橋にしたとされているため、この名がついた。
根拠となるのは、スウィザンの死後(863~971年頃)に書かれたラテン語詩で、恐らく橋の碑文を写したと推察されているもの。元々の文書は現存しないが、10世紀ウィンチェスターの修道僧ウルフスタン (Wulfstan of Cantor, 990年頃没) が著した文書に転載されている。
>> 参考文献: Narratio Metrica de Sancti Swithuno by Wulfstan, British Library Royal MS 15 C VII, f. 124v
>> 参考記事: Hampshire Chronicle, 3rd Oct, 2013
▼上記より、碑文の英文訳(新訳)およびラテン語原文の抜粋。
後半に竣工年月「859年、7番目の月」(大意)と記載があるっぽい。なお暦が現在と違うので「7番目の月」はいつなのか未確認:
(*)注:「celsitonantem」はこの石碑にしか見られない語 (CLASP準拠) 。本来は現代英語の「celestial」関連?
この橋に関わる逸話(石造りにした、および卵の奇蹟を起こした)と、971年に墓を移転した際に大雨が降りつづいた事から、
「スウィザンの日に(スウィザン橋に)雨が降ると、その後40日間、雨が降り続く」という民間伝承が生まれたらしい。
ジェーン・オースティンは最晩年、ウィンチェスターで最期の日々を過ごしてウィンチェスター大聖堂に埋葬されたが、亡くなる3日前(7月15日のスウィザンの日)に聖スウィザンと雨を扱った韻文を口述している。
◆「アルフレッド王子のローマ巡礼の添乗員」説について:
アルフレッドは幼少期に2回、ローマ巡礼しており、2回目の855年はエセルウルフ父王が同行しました(前回参照)が、853年の1回目は単独です。
と言っても勿論 1人で行くわけではなく、家臣や僧侶その他の大人達で構成されたローマ巡礼パックツアー団に、王家からはアルフレッドが参加した感じです。
この際に「スウィザンが同行した」という話が、聖スウィザン-アポン-キングスゲート教会 (St Swithun-upon-Kingsgate, Winchester) のパンフレットにも書かれているのですが、当時の記録が現存していない(現時点で見つかっていない)ため、後付けの可能性も高いです。
元ネタとしては15世紀のウィンチェスター/聖スウィザン修道院の修道僧、トマス・ラドボーン (Thomas Rudborne) が記した「Historia Maior ecclesiae Wintoniensis」(1454年刊)(『Anglia Sacra』Henry Wharton, p.179-286に採集) などがあるようで、
この中に、エセルウルフ父王がアルフレッドをローマ法王謁見のために派遣した記述のあたりに、スウィザンが言及されています。
▶参考:p.201下部~、以下抜粋。(誤記ありましたらすみません。)
ラテン語が読めないので取り敢えずGoogle翻訳にかけてみましたが、「スウィザンの在位期間中に、エセルウルフ王が息子アルフレッドをローマに送り、(アルフレッドは)教皇レオ4世に聖別された初めてのイングランド王となった。在位19年目のことだった」というような感じ。
この翻訳が合っている保証はゼロですし、「在位19年目」が誰にも当てはまらない(エセルウルフ王の在位期間としても5年ズレている)ので、よくわかりません。
一応当時のウィンチェスター司教なので、同行した可能性はありますが、同様の記述のある 9世紀当時の文書などは現存しておらず、上記のラドボーンの資料も、聖スウィザン修道院の修道僧であるラドボーンが聖スウィザン修道院で書いた=聖人としてあれこれ盛って書いているので、現時点ではあくまで憶測か後付けという扱いになるようです。
(参考資料: 「Historical writing in England, ii : c.1307 to the early sixteenth century」Gransden, Antonia)
▶スウィザンの墓の遍歴
スウィザンの墓は、現在は、ウィンチェスター大聖堂の祭壇 (high altar)とグレート・スクリーンの裏(東)側の feretory(聖遺物安置所)跡、およびその後に造られた聖廟(shrine)の跡で示されていますが、
元々は、サクソン時代の教会、通称「オールド・ミンスター (Old Minster)」にありました。
最初の埋葬場所は、当時のオールド・ミンスター(※現在のウィンチェスター大聖堂の北側に位置)の西側入口の前(屋外)。
これは、スウィザンが臨終の床で「教会に来る人達に踏みつけられたい//// 恵みの雨に濡れたい////」という性癖…… もとい謙虚な遺言を残したため、とされている。(この遺言も後年の創作っぽい)
が、971年に、当時のウィンチェスター司教エセルウォルドが、増築した教会の屋内に新たに作った聖廟に改葬。
◆遺骨の行方
聖遺物 (relics) は基本的に分散される運命にあるので、聖スウィザンの遺骸もあちこちに。
12世紀には少なくとも 14か所の教会が「聖スウィザンの聖遺物あり〼」と喧伝していたらしい ("Cult," Lapidge, p.40-42)。
修道院解散/宗教改革時にほぼ失われてしまったものの、スウィザンの頭蓋骨(とされているもの)がフランスに残っている。
▶頭蓋骨:カンタベリー→エヴルー
ウィンチェスター司教だったエルフヒア (Ælfheah of Canterbury)が1066年にカンタベリー大司教に抜擢された際、カンタベリーに頭蓋骨を持って行ってしまった。
以降、ウィンチェスター大聖堂のスウィザンは首無し。
その後、経緯不明(諸説あり)だが何やかやあって、フランスのノルマンディのエヴルー大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame d'Évreux) に渡った。
その後、イギリス側では所在を確認できずにいたらしいが、1997~8年にウィンチェスターの信徒団 (cathedral congregation) の1人が、北フランスの大聖堂を巡った際、エヴルーにスウィザンの聖遺物があるらしい事を知り、ウィンチェスター大聖堂の関係者に報告。改めて人を派遣して存在を確認。2000年には John Crook氏(歴史家、写真家。執筆多数、ウィンチェスター大聖堂についての本など)がエヴルーを訪問し、写真に収める。
("Cult", Lapidge, 2003, p.61~)
▶こちらの記事 (Church Times, 2009/3/25) に経緯とカラー写真あり。
▶腕(1):ピータバラ修道院
ピータバラ修道院(現ピータバラ大聖堂、前ミーズハムステッド修道院)にあったが消えたらしい。
→ピータバラの修道僧 Hugh Candidus (or/aka Hugo White, 1095~1060) がラテン語で書いたピータバラ修道院の歴史書(「Historiæ Anglicanæ Scriptores Variæ」Joseph Sparke, 1723年発行内に収録)に書いてあるっぽい。
source: Rev. Alban Butler (1711–73). Volume VII: July. The Lives of the Saints. 1866.
<余談/自分用メモ>聖オズワルドの腕と混同注意:
1070年にスヴェン王配下の北方(デイン)人がピータバラ修道院を襲って財宝や修道僧達をEly修道院に持ち去った際、デイン人の歓心を買った Prior Athelwold がこっそり宝物庫に忍び込んで「聖オズワルド王の右腕」を持ち出し、「stramine lectuli sui sub capite suo (藁ベッドの中、頭の下)」に隠して守った、そしてRamsey修道院にひそかに送って守らせたが、平和になった後も Ramseyの修道僧達は返すのを渋った。しかし「これ以上持ってたらあかんで」というお告げが現れたのでピータバラに返した、という逸話をHughが書いている。("The Peterborough Chronicle, 1070-1154" Cecily Clark, Oxford University Press, 1958, p.63)
("Ancient history, English and French, exemplified in a regular dissection of the Saxon chronicle," Henry Scale English, p. 142"
▶腕(2):スタヴァンゲル
ノルウェーのスタヴァンゲル大聖堂の目録に1517年まで記載されていたが、ノルウェーの宗教改革のドサクサで失われたらしい。
▶その他(本体の残りおよび衣類、塵)
12世紀頃の記録によると、色々な部位がイギリスやフランスの各地の教会に納められて(いると主張されて)おり、単に「聖スウィザンの体(Corpus sancti Swithuni)」としか書いていない、または「聖スウィザン(のもの)([De] S. Swithuno)」としか書いていないものや、「スウィザンが横たえられていた衣」や「塵 (dust/ pulvere)」なども含めるとかなりの数。
12世紀でコレ(上記)なので、その後さらにあちこちに分骨されたはずで、「1451年にウィンチェスター大聖堂の聖遺物箱 (Old Reliquary) が溶かされた (melted down) 際には、いかほどの骨が残っていたか、推し測れるというもの」(Cult, Lapidge, p42)。
▶ウィンチェスター
ウィンチェスター大聖堂の聖廟および/またはクリプト(地下の聖遺物礼拝堂)に、残りの部分(残りがあれば…)が納められていたらしいが、多分宗教改革とかのドサクサで消えた。
クリプトには他にも、サクソン時代の王族や司教の遺骨が納められていたが、よく水没するので地上に出され、例の遺骨箱 (mortuary chests) に入れられたっぽい(source要再確認)。
なお16世紀頃?のスウィザンの像がクリプト内の奥の方にあるらしい。
<余談>映画やドラマに出てくるスウィザン
◆「One Day」
アン・ハサウェイ主演。聖スウィザンの日に絡めたラブストーリー。
(未鑑賞)
◆「ダークナイト・ライジング」
クリストファー・ノーラン監督(イギリス系アメリカ人)のバットマン映画の3作目、原題「Dark Knight Rises」。
登場人物のひとり、ジョン・ブレイク巡査が育った孤児院が「スウィジン孤児院(St. Swithin's Home For Boys)」で、これは聖スウィザンの「割れた卵を元に戻す奇蹟」を孤児院に見立てたから、らしい。
◆「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか」
アガサ・クリスティの小説「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?(Why Didn't They Ask Evans?)」(1934) を、ドラマ3回シリーズに映像化したもの。 2022年(BBC/ITV)。
第2話に、主人公の1人、フランキー嬢のセリフに「I went to St Swithun's」、つまり母校が「セント・スウィザン」を示すものがあった。
原作には無い設定のようだが、ドラマの舞台となる地域性などを示しているっぽい。
「セント・スウィザンズ・スクール (St Swithun's School) は、ウィンチェスターにある女子向けボーディング・スクールで、1884年創立。
【追記】ピルグリムズ・スクール
セント・スウィザンズ・スクール(全寮制女子校、上記)と言えば、
ウィンチェスターには「The Pilgrims School」という年少男子向けボーディング/プレップ・スクールがあり、こちらは元々はウィンチェスター大聖堂の少年聖歌隊を教育するための学校がルーツ。
現在の所在地/学校組織としては1931年創立になっているが、このような聖歌隊向けの学校は、7世紀(AD 676年頃)のイネ大王の頃からあったとの事。
「ピルグリムズ・スクール」は、聖スウィザンの巡礼(ピルグリム)に因んでおり、
校舎の一部となっている「The Pilgrims' Hall」は14世紀(1310年頃)に建てられたもので、スウィザンの巡礼者が聖廟にお参りする前の休憩所だったとの事。一般公開もされていらしい。
【以上、2024年6月追記】
♰参考文献、リンク
参考にしたり文中で言及した文献、リンクなどの一覧。
ランフレッドの「Vita S. Swithuni」(聖スウィザンの生涯)および「Translatio et miracula S. Swithuni」(聖スウィザンの改葬および奇蹟):
スウィザンについての現存する1番古い伝記(多分)。
Lantfred of Fleury著、974~84年頃成立、ラテン語。
▶写本:大英図書館蔵 Royal MS 15 C VII
▶書籍:?
アルフリッチの聖人伝「Ælfric's Lives of Saints」 :
▶写本: 大英図書館 Cotton MS Julius E VII
▶ 現代英語訳 (Wikisource):Lives of Saints > Of Saint Swythun
▶書籍:「Aelfric: Lives of Three English Saints」(G.I. Needham, 1966版 / 1976版) 等
※その他の参考写本: Royal MS 15 C VII, Cotton MS Nero E I/1
ウルフスタンの聖スウィザン詩「Narratio Metrica de Sancti Swithuno」:
Wulfstan of Winchester (Wulfstan Cantor)著、10世紀最後半(975~990年?※上記Lanfred本より20年後くらい)頃成立。ヘクサメトロス詩形で書かれた、聖スウィザン伝。
ノルマン征服以前に書かれて現存している詩の中で最も長く、完成度が高い。
大英図書館蔵 Royal MS 15 C VII
https://www.bl.uk/collection-items/narratio-metrica-de-sancti-swithuno
Michael Lapidge著「The Cult of St Swithun」
本note冒頭「まず読むべき研究書」項 参照。
スウィザン橋の碑文についての記事:
Hampshire Chronicle
頭蓋骨の行方についての記事:
Gathering up Swithun's fragments - Church Timesスタヴァンゲル大聖堂にあった腕についてのblog記事
https://www.svithun.info/?page_id=188ピータバラ修道院(大聖堂)にあった腕については Hugh Candidus が言及している、という事が書いてある Alban Batler の本の抜粋
https://www.bartleby.com/lit-hub/lives-of-the-saints/volume-vii-july/st-swithin-or-swithun-bishop-and-patron-of-winchester-confessor/奇蹟のあれこれも含めて色々書いてある記事
https://orthochristian.com/122701.html
「Kemble」内のアングロ・サクソン時代のチャーターの証人署名 (attestation) をまとめた一覧表「An Atlas of Attestations in Anglo-Saxon Charters c. 670-1066」 (edited by Simon Keynes)
▶スウィザン前後のウェセックスの聖職者の署名リスト:Table XIX (West Saxon incl. Swithun) (PDF)
「エレクトロニック・ソーヤー」:
アングロ・サクソン時代のチャーターをまとめた書籍 Peter Sawyer著「Anglo-Saxon Charters: an Annotated List and Bibliography」のオンライン版データベースサイト。
https://esawyer.lib.cam.ac.uk/
中途半端ですが、一旦このへんで終わり。