潮風と街並みとサイクリングと③
前回の記事はこちら。
今回は瀬戸内サイクリング旅・1日目の目的地、大崎下島・豊町御手洗の記録を綴っていく。
大崎下島へ
明石・小長フェリー
明石港から小長港までは15分ほどだが、その航路は絶景にあふれていた。
日光はまだ白色のまま。橋を見上げ露出を切り詰めると、ファインダーの向こう側に無彩色の世界が広がっていた。
中の瀬戸大橋をくぐると、目的地の小長港はすぐそこ。
いざ、1日目の目的地・大崎下島へ走り出す。
大崎下島
豊町・大長
豊町(ゆたかまち)大長は、温暖な気候・水はけの良い段々畑や、海からの照り返しという好条件に恵まれた、ミカンの産地として知られている。明石・沖浦や明石といった島外の集落にも耕作が広がり、それらの行き来に利用された「農船」は最盛期には400艘を数えたという。
収穫期の11~12月には山の斜面がミカン色に染まり、「黄金の島」と呼ばれてきたそうだ。「大長ミカン」は現在でも有名な一大ブランドとして名声を得て、広島県一の出荷量を誇る。
ミカン栽培で繫栄したこの港町には、今なお立派な屋敷が並び、趣深い町並みを形成している。
豊町・御手洗
豊町御手洗は、北前船の潮待ち・風待ちで栄えた港町で、江戸~昭和初期にかけて建てられた伝統的建物が数多く残り、国指定の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
さて、一つ前置きを。今回私が訪問したのは3月29日火曜日なのだが、豊町御手洗の観光スポットはすべて火曜日定休である。このことに到着後気付き、建物の内部見学などが一切出来なかった。端的に言ってアホである。
この記事を見て御手洗観光を計画された方は、くれぐれも私と同じようなミスをしないようお気を付けを…
この日は、大正時代に建造された「越智醫院」の建物(写真の奥に見える水色の壁の建物)をリノベした、「GUESTHOUSE醫」に宿泊。
火曜日はどこも休みなのだから、宿泊客が私一人だけだったのも納得だ。
チェックインを済ませ、自転車を停めて街歩きへ繰り出す。
御手洗の町並み
御手洗の中でも「常盤町通り」の町並みは特に統一感があり美しい。
建物の壁に花が掛かっている。これは、地域の住民有志で結成された「重伝建を考える会」が育てた花を壁にかけているのだそう。伝建地区の景観の維持には、住民の協力が不可欠なのだと感じさせられる。
沖乗り航路の風待ち・潮待ちのために寄港する船が増えると、当初は燃料・水・食料を供給するだけの商いから問屋・仲買業へと発展し、次第に御手洗は経済の集積地としての機能を有するようになる。
人とモノが集積すると、娯楽も盛んになる。御手洗には遊郭が4軒あったといい、最盛期には100人を超える遊女がいたという。また、芝居や「富くじ」なども行われた。往時の賑わいを残す建物として、茶屋「若胡子屋跡」が唯一現存している。
また、御手洗は歴史の1ページにもその名を刻んでいる。
この会談の場になったのが、旧金子家住宅である。
御手洗の神社と海
路地を奥に入ると、天満神社の鳥居と見ごろを迎えた桜の花が出迎える。石段と本殿と桜の共演を撮りたくて、この構図を選ぶ。
平安時代、菅原道真が大宰府に流される途中この地に寄港し、天満神社の井戸で手を洗ったことから、「御手洗」の地名がついたという。
さて、そういう逸話を知れば、海を見たくなる。
海岸沿いの通りにも歴史的建造物が残っており、現在では飲食店や一日一組しか泊まれない宿にリノベーションされて、観光客をもてなしている。
静寂に包まれた道を、犬の散歩をしている人が通りかかる。
海岸沿いの通りは、江戸時代後期に千砂子波止が整備され、港が拡張したことに伴って町並みが形成されたという。
御手洗には神社が多い。
この住吉神社は千砂子波止の鎮守として作られたもので、本殿は大阪の豪商によって寄進されたものだという。
他にも、現在の御手洗港の近くには恵美須神社があり、日没が近くなると陽に染まった鳥居が美しい。
歴史の見える丘公園
歴史の見える丘公園は御手洗の町の背に立つ小高い丘に整備された公園である。夕暮れの時間帯、瀬戸内の多島美の織り成す絶景を味わう。
奥に来島海峡大橋を望み、まさに四国は目と鼻の先である。
真下に広がる御手洗の古い町並みから、平成10年に架けられた岡村大橋まで、街の発展を夕焼けと共に追体験できたような、稀有な展望台であった。
さて、瀬戸内海輪行記の一日目はここまで。2日目はしまなみ海道・ゆめしま海道をサイクリングしてゆく。
④に続く
写真はすべてNikon Z 6で撮影、Adobe Lightroom Classicで現像