鎧を脱いだ自分
こんばんは、アレクサンドリアです。
不意に思い浮んだのが、「鎧を脱いだ自分」という言葉です。
もともと、外向けにあまり武装したり、かと言って、ドレスに身をまとったりするのも性に合わないほうですし、
飾り気のない自分なので、媚びを売ったりもしないし、かといって大きく見せるつもりもないです。
それはなぜかというと、できるだけ内側の自分と、外側の自分を一致させることが、余計なエネルギーも使わず(つまり省エネ)、快適に生きられると思うからです。
それに、私の場合ですが、あれこれしない方が結局上手くいく、という感覚が昔からあります。
よく、ものごとを進めるために策を練る策士のようなタイプの方がいらっしゃいますが、それを見事にできる人は、その能力を存分に生かせばよいと思います。
私は、策略には向いておらず、まず心がそれを拒絶するので、心で思うことと頭で考えることが不一致を起こしている場合には、結果は上手くいくはずがないでしょう。
策士は、大義のため(私情のため?)ならと、心と頭が一致している人のことだと思います。
私は道義的にどうか、というのを考えるので、道義に反することには抵抗があります。大義については、心が同意すればできます。
ただ、冒頭に書いた、「鎧を脱いだ」については、仕事における自分の役割がすなわち「鎧」だったなあ、と感じています。
たとえば、ある理由があって辞めて頂かなければならない人。
また逆に、辞めて頂いた方がよいのに残っておられる人。
道義とは異なる、なんとも言えない世界がありました。
それを腹に落とし込んで、前に進むのに、「役割」という鎧を着て、価値判断をせざるを得ませんでした。
社内的にも、社外的にも、鎧を着ていました。
これを脱いでみて思ったことは、「重かった!」ということです。
あと、ウエットスーツのようにきつくて、心も身体も硬く、呼吸も浅くなるということです。
まだ正式には、役割は終わっていませんが、やっと鎧を脱いで、心身ともに軽くなってきた感じです。
一度、この感覚を味わうと、どうしてあんなにガチガチだったんだろう?と不思議なほどです。
そしてこれは、仕事に限ったことだけでなく、それ以外のことにも影響するものなのだなあと思いました。
ただ、ものごとをいい加減にするということではなく、自分なりのこだわりなど、自分らしさが出せるようになってきた感じがしています。
今後、鎧を脱いだ自分が、どんな風に変わっていくのかが楽しみでもあります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。