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「熱を頂く」と言うこと
芋を手にして、ふと思う。
私は年末年始に、芋を食べようとしているではないか。
年末年始っぽくないこの衝動的な所作から、
私は、いささか説明できない一抹の不安を感じた。
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「今年の振り返り」や「新年の抱負」と言う定番の談話は、年末年始に限って、他愛もない会話の沈黙や、隙間を埋めてくれるが、必ずしないと死ぬわけでもない。
あたかも、誰もが当たり前かのように、突如と人生のPauseボタンが押され、過去を振り返り、自問自答しながら、抱負を導きだす。そして、その抱負は大切な一切れのパンのように、心のポケットにしまい込み、確たる覚悟と共に、人生のPlayボタンを自ら押して、人は、また喧騒な日々に戻っていく。
様々な事象や思いが、世の中で一度にリセットされていく年末年始は、実に圧巻だ。
そして、そのような圧巻な輪廻の所業に、いつも圧倒され、どこかたじたじになる私は、不意にも、年を重ねるとともに、抱負も振り返りも大の苦手になっているように感じるのだ。
時の営みは、風もなく強くうねる、大海原のように、私の振り返りや抱負があろうがなかろうが、次に次へと新しい波が生まれ、前に前にと、進んでいくのであろう。一つ前の波の形など、海は覚えていないだろう。
いけない、いけない。
そろそろ、芋を切らねば。
芋を切って、ふと思う。
そうだ、私は無性にも、芋が食べたいんだった。
年の瀬に、私はサツマイモが食べたいんだ。
私の個性所以か、仕事柄か、好みの有無問わず、様々な情報やできごとを、幾多の言語で、日々また日々と、目の当たりにしては、貪欲に、恣意なぶつ切りで、大きさを整えて、脳に蓄積していく。
そして、多くの情報を咀嚼し、なにらかの栄養分として、己の好奇心を満たすのは、実にカロリーを消費する所作だと、私の空きっ腹は常に証明しているのだ。
情報社会の副産物「情報過多シンドローム」とは、意地でもでも無縁だと、言い張りたい私だが、#タグと@マークの合間合間から、透け見える手段と目的がボヤケている迷走させられている文字たちに、やや胸焼けしている。
情報化社会とAppleのおかげで、人は、言語化の手助けをする手段と工具が、あまりにも贅沢にそろってしまった。降り注ぐ指の乱打から、繰り返される、他愛もないつぶやきやポスト。心の中と心の外の境界線はより一層と曖昧に、ボヤケている。その一方で、言語化の目的など、覚えている人々はどこにいるのだろうか?
自他の境界線がより一層曖昧になった情報社会の怒涛の時の流れは、年末年始の輪廻と比べても、これまた圧巻だ。多くの声が風となり波となり、人々の心の奥先にある平らな海面を様々な角度から揺らしているのだ。荒れ狂う高波も、ささやかな海風も、見分ける余裕など与えずに。
ところで、我ながら、きれいに四等分にサツマイモが切れたものだ。
今日は、いつもより、芋を、美味しく食べるために、
私はパン屋さんの「窯の熱」を借りる旅に出かけるのだ。
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パン屋を前に、ふと思う。
数週間前に、私は、とある雑誌の編集部の公開編集に参加した。
その時に、幸運にも、芋の神様の導きで、パン屋塩見が、パンを作る薪窯を、一般の人にも開放していると言う情報に触れたのだ。
「パン屋塩見は、薪の窯でパンを焼いています。薪を燃やして温めた窯は、パンを焼き終えた後も長時間に渡り熱を保ち続けます。温度はパン焼き直後で約200度、閉店時にもまだ150度以上残っているのです。
…その熱、もったいなーーーーーい!!!
現在、イートインメニューの玉葱スープの仕込みなどに余熱を利用していますが、窯床のキャパシティはまだまだ余裕あり。せっかくならここ、みなさんと使えたらいいじゃない!?物は試し、さっそく募ってみることにします。」(パン屋塩見さんの投稿文から引用)
つまり、パンを焼きおえた薪窯は、熱を帯びながらも、その熱は、加熱する手段としての役目を終え、どこぞに次のやり場があるわけでもなく、自然消滅していたのだが、店主はその熱がもったないと感じ、余熱を帯びている薪窯を、熱を欲している様々な人に、共有する仕組みを作ったのだ。
そして、今日私はひらめいてしまった。
どうにか、芋を美味しく食べたい、わたしの脳は
芋づる式のように、記憶からこの情報を掘り当てたのだ。
「他人である近隣から頂いたサツマイモを、他人であるパン屋の薪窯の熱で、他人のワタシが鍋で調理して限りなく美味しく食す。」
改めて文字にすると、なんともたくましい己の食欲に、感動さえ覚えるが、感情の起伏以上に、私の行動は早かったようだ。なぜなら、気がつけば、躊躇なく、私の足は、その上にあるすべてを、パン屋塩見まで、運びだし、そして、すでに我が家の鍋に入ったサツマイモを、私の両手は、店主に預けていたのだ。
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突然と現れたサツマイモと、私にびっくりすることなく、店主は鍋を見つめた。なんとも淡々と、丁寧に、パン職人としての知見から、おおよその焼き上がる時間を予測し、2時間後に受取にくれば大丈夫であろうと、真摯に私に伝えてくれた。
再会が確約された別れは味気がないが、
連絡先など確認したのち、私はパン屋塩見をあとにした。
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ふと店前で踏みとどまり、違和感の糸くずをひっぱりだしてみた。
そうだ。鍋を見つめながら、赤の他人である大の大人ふたりが、面と向かって、真剣にサツマイモの仕上がり時間を談義するこの一時の思い出は、所以なく、なぜか味わい深いほど愉快な体験であったのだから。
ああ、そうだった。いつからだろう。赤の他人と話すことが、遠くの記憶に感じるようになったのは。
「人間」にはとめどなく溢れる好奇心を自負していた私は、いつから、断片的に、抽象的な文字や言葉から、想像力だけはマッスルアップしたかのように、様々な場所に溢れかえる、安易でインスタントな言葉たちに、覗き見で、なにも躊躇なく、存在もしない人々の全貌を、私の中で、でっちあげていたのだ。
ああ、可笑しいな。
愉快ではないのに、笑えてくるんだから。
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待ち時間で、ふと思う。
サツマイモは鍋の中で、薪窯から熱をじっくり頂く。
私は突如と2時間の自由時間を、余儀なく与えられた訳で、
漠然な2時間分の「芋待ち」がここで爆誕したのだ。
不思議にも、スマホなどいじる気にならない時には、
足が勝手に動きはじめる。
どうせ、迷っても、文明のGoogleが帰路を教えてくれさ。
ドキドキもなければ、ワクワクもないのは、なんとも公平に感じる。
ああ、どのように思考を巡らせれば、一刻も早くと2時間は過ぎ去るのだろうか?
きっと、何時かの、小学生の時の夏休みかのように、
待てど待てど、1日が2日にも、数日にも感じるほど、時は長くなり、
楽しい夏休みが始まったとたんに、1日は数分かのように、過ぎ去っていくのだろうな。
でも、不思議だな。
今の私の毎日は、確実に1秒が1秒であり、
1秒以上でもなければ、1秒未満でもないように感じるのはなぜだろう。
かけられてもいない魔法が、勝手に消えたと感じるこの理不尽。
わがままとはこういうことかもしれない。
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日焼けしているかもしれないぬいぐるみ。
愛しさと哀愁の集合体を長々と見つめてしまった。
ああ、時の短長を、いちいちと、痛感する必要が、
今の私の生活にはないのかもしれない。
いつからか、分針も、時針も、見かけなくなった。
左手につけているGarminも、モニターの隙間にうつる時刻も、
数字の真ん中で、点滅しているコロンの記号が、不安をかき消してくれているのだろう。
バイタルのモニターに映る心拍のように
「動いているよ。君は生きているよ。」と。
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知らない路地を抜けると、
居酒屋の呼び込みポスターに視線が奪われた。
躍動感を出す時に、
擬人化した場合、イカもサバも、走りだすという解釈は、
なんとも奇妙で、私の心の中で納得が渋滞した。
生き急ぐ如し、死に急ぐ如し。
ああ、そろそろ芋を食べないと、
私も、目の前のイカとサバと同じ終焉を迎えそうだ。
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年末年始から逃げていた自分が、
ずっと続いてほしいくらい、居心地よく散歩していた路地を進むと
そのさきには、見慣れた新宿が現れた。
ああ、そうだ。
Google先生を頼りに、パン屋塩見に戻ろう。
芋を食べて、ふと思う。
パン屋塩見に戻ると、玄関には今日のパンはSold Outと記載された黒板。
年末年始の威力に怖気つつも、ドアから恐る恐る中を覗くと、「ばっちしできましたよ!」と、私より嬉しそうな店主の声が聞こえた。なんとも言葉にしがたい安堵な気持ちで、私は鍋を受け取った。
蓋を開けるやいなや、二時間の熱を頂いて仕上がったサツマイモから、
どこか懐かしいキャラメルのような甘い香りが漂った。これはきっとチームワークの香りなのだろう。ああ、きっとそうだろう。赤の他人の鍋に、赤の他人の芋をほうりこんで、赤の他人の窯から熱を頂いただけなのだから。
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芋を食べている時、そもそも人は、なにもふと思わないことに気がついた。こんな美味なサツマイモを、無心で貪るときに、私はなにも思わないことに気がついた。
ああ、そうだ。
私はお腹が空いていたから、ふと虚無にひたり、
あるようで、ないような思いをつなぎとめ、
言葉を紡いでいただけだったのかもしれない。
ありもしない年末年始の呪縛に勝手におびえては、
勝手に芋に逃げていただけなのかもしれない。
ああ、きっとそうだったんだ。
これは、夢オチよりも、たちの悪い、
この数千文字の文章の終焉は、
ただの、空腹オチだったのかもしれない。
ああ、また、熱を頂きにいこう。
サツマイモで暖まった、
この手と心が温かいうちに。
2024年12月30日
「美味しかった?」
(塩見パン漫画より引用)
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