【雑談】成長できる人の特徴(とかいいながら、この1年を振り返ってます)
※注意:7500文字超えてます
今から1年前、自分はこんな記事を書いていた。
この時は、その後に起こることなど何も想像できずに、ただ目の前にあることを淡々とこなしていた。
というと、嘘になる。
かといって、淡々とこなしていること自体は嘘ではない。
今日は、2か月ぶりの雑談となるが、あらためてnoteを始めた理由、続けている理由、そして最後に今後の展望を、だらだら書きたい。
雑談回ではあるが、これは来年の自分と比較することになるであろう、
重要な記事になると思うので、当然長い。
でも最後まで読んでくれたら
「成長できる人とそうでない人の違いがわかった」
という人が増えることを目指しているので、時間の許す限り、おつきあい願いたい。
記事を書くのにかける時間
このnoteの題目が
「Life Breeze」~快適な日常の過ごし方~
であることに気がついてない人は多いでしょう。
画像で埋め込んでいるから、そもそもこれらのワードの検索でヒットしないから、この題目自体にはnoteを見てもらおう、という気合も感じられない。
それでも、私自身はこの題目に意味を持たせているし、第1回目の題目が以下であることは、この記事全体のテーマそのものだからです。
1年前のゴールデンウイーク明けに公開しているが、記事の準備はゴールデンウイーク前からしていて、このnoteの画像やLifeBreezeという名称を考えるのには、2週間くらい費やしています。
なぜか。
私のテーマに「人材育成」というテーマがあるが、これも20代とは考え方が変わってきていて、自分の影響を受けるかどうかは相手が選ぶべきことであって、たとえ企業内の研修であっても、選択の権利は相手にあるとの考えに変わったから。
だとするなら、私がこの世界で伝えたいことはことは、とりあえず一方的に記録しておき、その人にとって必要なときに読まれればいい、そう考えたからです。 その伝えたいこととは、「自分とは何か?」という問いを確かめるには、普段から自分の体の感覚を意識しながら、楽しい日々を過ごすことで、自分が霊的な存在であることに気がつけることです。
ただ、テーマにそれを掲げると、誰も寄り付かないんじゃないか、という心配とそもそも「自分とは何か?」はわざわざ表に出さなくても、時が来れば分かる人にはいずれ分かることだから、まず気楽に生きることを目指してもらおう、そう考えてあえて題目は
「Life Breeze」~快適な日常の過ごし方~
としたわけです。
ちなみに、この題目はChatGPT3と一緒に考えました。
また、あとで解説するけど、今回の表紙絵はChatGPT4oと10回ほどコミュニケーションして生成したもので、かなり時間がかかってます。
今みなさんが読んでいる記事、当たり前ですがその時私はみなさんの目の前にはいません。そして、この記事が一体どれくらいの時間をかけて作られたのか、は知る由もありません。
私が一つの記事にかける時間は、短いもので1時間、長いと3週間以上だったりします。
それって「構想含めてじゃないの?」と思うかもしれませんが、そうではありません。
書き出してから、終わってリリースするまでに、3週間以上かかるものもあるということです。
文章と会話の違い
文章を作成するのにかける時間が、読む時間に比べて長いというのは、対面で会話する時との大きな差で、同じ内容であってもこうして文章で起こされている文字を読み解くことは、対面の会話と比べてメリット・デメリットがあります。
対面の会話のメリットは、相手の表情、声の程度から文字からは読み取れない感情が読み取れることです。
もちろん、これはデメリットになる可能性もあります。
なぜなら、例えば相手は本当に全然怒っていないのに、怒っているように聞こえてしまう場合です。
言葉としては「全然大丈夫だよ」としか言ってなくても、ですね😊
また、リモート会議のようなケースと、実際に同じ空間にいる場合で差がある場合もあるでしょう。
同じ空間であればそこで起きている事象はすべて共有されますが、リモート会議では画面外の情報は共有されません。
「同じ時間が経っている」
という間のようなものもコミュニケーションにおいては重要ですが、対面とリモート会議で生じる差異も無視できないことはあります。
それはそのコミュニケーションの目的で使い分けられたら最高ですが、まだなかなかそこまで使いこなしている人は少ないようです。
このテクニックについてはいずれどこかで触れるかもしれませんが、今日話したいのは、文章で起こした場合のメリット、です。
この文章が意味を持つためには
対面で得られるメリットは、文章で起こした場合にはもちろん無くなるのですが、目的によっては文章で起こした方が絶大な効果がある、というカテゴリがあります。
それが、
相手の成長を待つ必要があるメッセージ
です。
私がnoteをプラットフォームとして選んだ理由は以下の記事内「noteが持つ特性を生かして」に書いてますが、それはつまり「動画でもダメ」ということなんです。
動画は、言葉以上に多くの情報を与えますし、表情を含めればかなり有効な情報伝達手段です。
しかし、私が伝えたいことは、非常に上から目線になってしまうのですが、相手の力量次第なので、時系列をコントロールできない動画では、その効果が発揮されません。
例を挙げます。
今、この記事をここまで読んだ人で、途中のリンクに飛んで、そこからまた戻ってきた人はどれくらいいるでしょうか?
また、リンク先にはさらに他のリンクもあるため、さらにそのリンクを辿った人はどれくらいいるか?
また、そのリンク先の記事は今日よりも過去の記事であることは間違いないが、同じ記事を何度も読んでいる人はどれくらいいると考えられますか?
ここで言いたいのは、その数そのものではなく、「組み合わせの数」です。
この記事のここに到達する時点で、今あなたが読んだルートとは「違ったルート」でたどり着く方法はどれくらいあって、さらにはそれにかけた時間の多様性は・・・非常に膨大であることが容易に想像つきますよね?
みなさんが学生時代に(今も学生の方も読んでいたらとても嬉しいですが)新たな知見を得たプロセスは、元々このルートだったはずです。
予習をする→授業を受ける→わからないところを聞く→復習する→テスト
目的はテストでいい点を取るためだったと思いますが、このルートは全員が同じではなく、かけた時間もまた違います。
もっと言えば、取りたいテストの点数すら、違っていたでしょう。テストに対する姿勢も違っていたかもしれません。
この記事は、初めに述べた通り、私が以下の目的を持って書いています。
「自分とは何か?」という問いを確かめるには、普段から自分の体の感覚を意識しながら、楽しい日々を過ごすことで、自分が霊的な存在であることに気がつけること
ここで問題になるのは、その人がこのことにどれくらい関心があるか、ということです。
(テストで何点取りたいか、に相当する)
多くの場合、このことに関心を示すのはかなり歳をとってからで、そうでなければよほど周りを観察している、死にそうな目にあった、誰かの影響を受ける、などがなければ多くの人は生まれた国の学校教育で受けた影響に支配されています。
このことを途中まで示したのが以下の記事ですが、人によってこの記事の見方も大きく異なります。
それは、同じ文章を読んでも受け取る人の人生観で解釈が異なるような内容を意図的に配置しているためです。
何度も読めば必ずわかることがあるように書いているのですが、これらの記事があなたにとって難しいと感じるなら、それはまだあなたにはこの記事が必要ではないか、実生活での経験が足りていないのかもしれません。
例えるなら、同じ恋愛小説を読んでも、恋愛未経験と、経験後、またはその経験内容によって同じ人が読んでもその時々でその小説の印象が変わる現象と同じことが、この記事の持つ性質だからです。
ちなみに、恋愛は人類の関心ごとの一つで、私は30年くらい前にスタンダールの「恋愛論」を読んで以来、たまに読み直しますが、そのたびに新しい発見があります(または前回の発見を忘れている)
600ページという厚さなので前から順番に読むのではなく、興味のあるところから20ページくらい読むだけでもとても役に立ちます。
この本が古典として優れていると思うのは「結晶作用」という言葉です。
社会人になったらみんな知っている単語だと思っていたが、そうでもないらしい。
でも、私の記事を見ている人にはお勧めできる本です。
たぶん、死ぬまで、たまにページをめくりたくなる一冊だと思います。
この1年で何が変わったか
私は途中で、もっとわかりやすい説明をしたらいいのではないか?と思ったこともあります。
でも、結局そうせずに、一つの解としてMP’sCafeのように「ありふれた日常を、とことんまで追求」に戻したのは、この1年で、結局自分ができることには限界があり、またわかりやすくすることで誤解を招く可能性の方が高いとの考えに至ったからです。
この3か月間の間に何かあった、というわけではないんですが・・・いや、あったか。
仕事の変化?人間関係の変化?
うーん・・・
そうか。
私はまた少し、新しいことに気がついたみたいです。
それは、自分が中でまだ捨てられない執着があり、それを手放す勇気がなかった自分でいた、ということ。
動画をやりたい、もっと多くの人にメッセージを、って思っていたけど、私が本当にしたかったことは、そうではなかったのかもしれません。
冒頭で書いてますが、昨年の8月、私が書いた記事はこれでした。
この時、一緒に山を登った彼は、もうこの世にはいない。
私は時々、彼と話すけど、彼がこの世を去った理由は、まだ聞けていない。
それは、私はまだ他人の心を読み解く力が足りていないか、それ以上に、自分の中の何かに気づけていないからだと思う。
話は完全に横道ですが、私が死者と話すことに違和感を持たなくなったのは、ガンダムのアムロとララアのエピソードが、実際には多くの人が経験していることだからです。
(わかるひとにしか わからないですが)
日本人のお墓参りにおける対話も、結局自分の中にいる相手の像が、変化することで、例えば子供の時には気がつかなかった親の愛に、親を亡くしてから気づくことも同じなんだと思います。(私の両親はいたって元気ですが)
話を戻すと、この時は広島商人という記事にかなり時間を取られており、その原動力は日本人にもっと元気になってもらいたい、という思いがありました。
今年も「広島商人_現代版」を作るべく、かなり時間を使ったのですが、多分私の中で、疑問があった。
「そんなに多くの人の目に触れることが、本当に重要か?」
よって、公開はちょっと今年は見送った。
終戦記念日に合わせるのでなく、納得のいくレベルになったら公開しよう。そのころにはもっとAIが使えている気もするし、と考えた。
そして、この記事を始めたのも、8月です。
でも、結局のところ、今はMP’sCafeに集中させようと思っている。
突然、何かのきっかけで子育ても進めるかもしれないが、今は考えてない。
音楽とワインも重要なんだけど、その2つも、コーヒーが終わってからでもいいかな、と。
ワインはお酒が飲めない人にはちょっと残念な話になるかもしれない。でも、人類の歴史においては重要なのでいつかやりたいけど、それよりはコーヒーの方が間口が広い。
ただ、前回書いてて思ったのは「コーヒー飲めない人もいるだろうなあ」って思った。飲めないというか、苦手というか。けれども・・・
コーヒーが苦手な人でも、飲みたくなる
うん、ハードルは高い方がいい。
そういう記事を、次は書こう。
私はこの1年を通して、いろいろな経験をした。
そこで得たものは、やはり
自分とは何か?
の気づきだった。
経験は人に何をもたらすか
いやー、しっかり、だらだら書けたんじゃないかな。
ここまで読んで、
「成長できる人とそうでない人の違い」
わかりましたかね?
わからない?
うーん・・・
初めに書いた
この時は、その後に起こることなど何も想像できずに、ただ目の前にあることを淡々とこなしていた。
というと、嘘になる。
ここが、いわば答えみたいなものですが。
成長とは、
考える → 行動する
の繰り返しなんです。
ただ、この「考える」の部分が、できてない人が多く、結局行動が無駄なものに終わっている場合が多い。
最後に、それを解説して終わります、
まず、この記事の表紙、AIで生成したプロセスについて以下に載せます。
この結果が表紙絵なんですが、途中、指示通りに言ってないところが多いですよね。
ここで、そのテクニックについて語りたいのではなく、なぜ「こんなことをした」のかについて触れます。
みなさんは、「なぜ自分はその行動を取ったのか?」ということについて考えたことはありますか?
絵を描きたい、作曲したい、料理したい、資格を取りたい・・・
どんなことにも「目的」はあるはずですが、多くの人は、私も含めていちいちその瞬間に「深く」は考えないんですね。
それは、言うなれば人間も普段は言語を持たない動物として行動していることがほとんどで、それに言語としての意図を認識しているのは、ほとんどが後付けであることが分かっています。
熱いものに触れた時に手を離すのはそれを判断してからでなく、離したあとに「熱かったから」と認識するようなもので、いわゆる無意識で行動することで脳の労力を節約しているのは生存率向上のためでもあります。
一方、行動を起こす前に、「何かを考える」というのは、たぶん人間だけができる営みで、それはつまり「対面で言葉を紡ぐ」のとは違います。
「まず言葉だけで未来を紡ぐ」
そして、その言葉が定義できたら、あとはその通りに動く。
このサイクルを回すとき、人は成長のプロセスにあると言えるのではないかと私は考えています。
この成長の定義が正しいかどうかは私にとっても、あなたにとっても重要ではないと思います。
まず、言葉があって、それを試す。
この時、もしその言葉、文章、ストーリーが明確で、ワクワクするものであったなら、それはその人が成長している証と言えます。
なぜなら、「ワクワクする」のは、それが自分の夢見たものであり、過去にない経験であるからです。
人は、同じことを続けると、ワクワクしなくなります。
今だったら、自動化できる、という言い方になるかもしれません。
ちょっと見た目ややり方を変えただけで納得する人もいますが、その多くはそれで周囲が称賛した場合です。
こういう人は、目的が自分の中にではなく、他人の目によって左右されていることに気づかないと、いつまでも「自分とは何か?」に気づくことなく、他人に認められないと自分が成長した気になれないというスパイラルに陥ります。
このスパイラルと「自己満足」の区別も難しいです。
多くの人は、相手にネガティブなことは言わないよう教育されていて、褒め合う文化があるので、気を遣われていることを認めたくないものです。
「自分のしたいこと」
を発掘するためには言語能力が不可欠ですが、この言語能力自体が多くの場合、他者の影響からもたらされるもので、
「自分の力だけで言語能力を上げる」
のはとても難しいからです。
いままでは。
詳しくはこれも別の機会にしますが、AIの活用によって、この問題が解決しました。
つまり他者を頼らずに言語能力を上げることが可能な時代になったということです。
そして、AIの仕組みを理解すれば、自然と「自分とは何か?」に気づける時代になったのもみなさんの成長を助ける効果が大きいです。
その序章は、1年前に以下の記事として残っていますが、この当時はこの速さでAIがここまで進化していることは期待していませんでした。
この【AIの原理】もいずれ続きを書きたいと思っていますが、もしかするとその記事自体、AIで書けるな、と最近思っています。
わかりますかね?
私にとっては「記事を書くこと自体」も目的ではないので、引用で目的が達成できるならそれでもいいわけです。この記事の最後でもそう書いています。
私は以前、「絵を描きたいな」と思っていました。
しかし、私が絵を描きたい理由は多くの画家やイラストレータと違い、「目的を持った絵」でした。
時に、画家やイラストレータが描く絵には、時に魂が宿ります。
目的がない絵、と言ってもいいかもしれません。
その人の経験が肉体の記憶に蓄積され、無意識に動く手が紡ぐ絵は、その魂の体現であって、時にはその絵を見て涙を流すこともあると思います。
しかし、私が描きたい絵は違いました。
誰かに、何を伝えるためで、それは感動とかいうたぐいのものではなかったということに気づきました。
ただ、「伝えたいこと」はあります。
それは、万人にではありません。
たった一人に対してかもしれないし、例えば初代ガンダムのファンにだけわかる何か、なのかもしれません。
今回の表紙絵は、私が今日、この日を忘れないためです。
過去の表紙絵も、もちろん意図を持って選びました。自分で撮った写真もあります。
でも、今回初めてAI生成にしました。
それは
「自分とは何か?」という問いを確かめるには、普段から自分の体の感覚を意識しながら、楽しい日々を過ごすことで、自分が霊的な存在であることに気がつけること
を目的にしたこのnoteを続ける理由を私が忘れないためであり、いつか誰かがこの絵について語る日が、何十年後かに来ることを期待して、です。
ここまでたどり着いた方、お疲れ様です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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