【雑談】陣馬山~高尾山縦走ルートで考えたこと(2)
前日に結局飲んでしまい・・・
マインドマッパーの煮卵焼きますです。
前回は、「早く寝ないとね」ってとこまででした。
熱中症のリスクを避けるために、8時半から陣馬山に出発を計画。
前日早めに飲んで、早く寝て・・・の計画でしたが、そもそも、
16時に八王子で飲み屋を探そうとしても、だいたい17時からがほとんど
なので、まあ「適当なところ」に入るわけです。
で、1時間ほどで切り上げて、次に入った店も行き当たりばったりで
探したので、なんか、ほかの二人は飲み足りないようで、
不完全燃焼で・・・とか言って、3軒目に。
この話の詳細は省略しますが、要するに酔うほど飲んで、寝たのは23時
くらいでした😔
本題に入ります
今回の登山ルートについては前回の記事を見てもらうとして、
結局、8時半~15時過ぎまで、食事もとらずに歩きっぱなしです。
幸い、前日のお酒は残ってない感じで、体調は悪くなかったんです。
でも、そのルートが、楽なのか、大変なのかは人それぞれだと思いますが、
私にとっては4日経った今でも疲れが残るレベルなんです。
実際の工程では、途中、膝の痛み、股関節の痛みなどが3人を襲います。
時々「途中であきらめるか」が頭をよぎったほどです。
水についても、少なくとも1.5Lは持っていったのですが、
途中で足りなくなりました。
その日は平日だったので、茶屋がやっていなくて、高尾で水道の蛇口に
たどり着くまでの残り1時間ほどは、渇きとの戦いでした。
それでも、予定を一時間以上オーバーする15時半ごろ、無事?
高尾山につきました。
休憩を除いても、6時間は歩いている計算になります。
歩いているときに考えたこと
で、やっとこの記事の本題なんですが、私は前回の記事で
まあまあ忙しかったことを書きました。
noteの記事も、いくつかの種類を並行展開していて、本当は
毎日記事をたくさん発行したいと考えています。
一方で、本業も忙しくて、サラリーマンとしてしなければいけないことが
あるのですが、私はそういうときに、「じゃあ、何かをやめるか」
という選択をしません。
その理由は、うまくは言えないですが、ひとつは
時間があれば何でもできるわけではない
というのがあります。
よく、忙しい人、というよりもあえて書きますが
「できない人」
の言い訳に「時間がない」っていう人、いますよね。
私は、それがよく意味が分かりません。
「時間がないからできない」
って言うのは、裏を返せば
「時間があればできる」
になるんですが、それって、いったいどんな仕事なんでしょう。
もしくは遊びでもいいんですけど。
過去に、私はそういう人、つまり
「今は時間がない」
っていう人に、
「じゃあ来週一週間それだけやっていいから、やって」
って言って、実際にやってくれた人に、未だに会ったことがありません。
その時の言い訳は
「ほかにやることがいろいろある」
とか、まあごにょごにょって言うか、最後には
「よく考えたら、時間があってもできる気がしない」
って言うんですよね。
なので、
「時間があればできる」
って言う人は、あまり信用していません。
で、それって自分にも当てはまって、
「時間がないからできない」
ってのは違うな、と常々思っているので、
とにかく、計画をたくさん立てる。
やりたいことは、計画する。
そしたら、
あとはやるだけ
と、自分を追い込むわけです。
やるときは
考えずに、とにかくやる
です。
前回の記事でも、自分を追い込むために、こういうことを書きました。
で、登山中の思考に戻ると・・・
私は、自分が「動物としての人間」であることと、
「考える存在である人間」を意識的に切り替えてます。
で、今回、登山中に疲れだした頃には
「動物としての人間」
のモードに入ります。
そうすると、疲れなくなるんです。
最近みなさんも耳にすることがあるかもしれませんが、
実は「疲れ」って、乳酸がたまる、とか、体力が、という
ことよりも、
「疲れたという概念」
をその人が持つことで、疲れてしまう、ということが
だんだんわかってきているようです。
ここでいう「わかってきている」というのは、
わかりやすい説明が広まっている、という意味で、
私自身は、もともと人間は
たんぱく質の塊を、意識がハッキングしている存在
くらいにしか思っていないので、当たり前のことなんですが、
要するに
疲れたって思わなければ疲れない
んですね。
あ、この話はこっちで10話くらいでするから、今はここでやめます。
で、動物モードで延々と1時間くらい歩いていたら・・・
暑さで意識もどこか別のところに行ったかな、って思ったころ、
ふと、ある映像がよぎったんです。
それが、この自分の記事のシーンと一致していました。
この記事は、あるドキュメントの一部ですが、原爆投下直後に、著者が
家に向かう途中のシーンです。
このシーンとその時の自分が重なったのは、暑さの中、のどが渇き、
ただ黙々と歩く・・・という部分の類似性だと思います。
人間、
何も考えないようにしよう
と思って、簡単にその通りにできるものではないのは、座禅や
マインドフルネスに取り組んだ方ならわかると思います。
武術やスポーツでも、「力を抜く」というのは、案外難しい。
ただ、私は自分を無意識で動かそうと
体を動物として、楽に動かす
という訓練はもう30年以上はしていて、特にこういった
単純な動作を延々と続ける
と、時々自分の意識が何かとリンクしたりトランスした感じに
なるんです。
私はこれを学習フェーズの訓練だと認識していますが、
登山はいわば強制的に訓練させられていて、体は勝手に
いかに楽に体を前に進めるか
だけをそれぞれの体のパーツが意思を持ったように
動く時があります。
そうすると、たぶん、脳が暇だったのでしょう。
何も考えないということは、無意識下で考えていたことが
表面化しやすいというのもあって、どうやらこの
原爆投下直後の街、土手を歩くというシーンが私の頭に
はっきりと映し出されました。
もちろん、ここ数か月はこの記事を何度も何度も書籍と突き合せたり、
その時の状況の裏を取ったりしていたせい、ってのもあるでしょう。
で、一度何かを考えてしまうと、再び動物モードに戻りにくくなる
のですが、この時思いました。
あー、健康に生きてるって思うだけで、こんな、
登山なんて、たいした辛さじゃないな
と。
もちろん、そんなこと言ったら比較の対象は他にも
いろいろあるって思う人もいるかもしれません。
ただ、8月10日の私は、そう思ったのです。
明日は終戦記念日。
平和を願う。
核は廃絶すべき。
そういうことを自分が本気で思うなら、
今の日常って、幸せすぎじゃないか?
あー、ひどい雑談だなあ・・・
まだ、10日の疲れが残ってるのかな。
今日はこの辺で。