死の恐怖について
まえがき
先に断っておくと、この記事を書いている時点で私は30歳に差し迫っており、所謂クォーターライフクライシスの時期なので、暫くしたらケロッとしている一時的な精神の不調かもしれない。
とはいえ、今特別デカい死の恐怖が来てるというだけで、わりと慢性的に恐怖心を抱え続けているのも事実。
このnoteはとにかく今死に対する不安がめちゃくちゃデカくなってるので何にでもいいからどっかに書き出して整理をつけたいという目的のものなので、あらかじめご了承いただきたい。
(あと、こういう悩みを抱えたならまず読んでそうな『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版』を読んでもいないので、たぶんもっと真剣に死について考えてた人にとっては物足りないかもしれない。)
結論
あらかじめ簡潔に述べておくと、私は凡そ無神論的な唯物主義に今のところは腰を落ち着けてしまっており、結果、死を宗教的な手段で克服できずにいる。なので理屈っぽく、恐怖を軽減しようと試行錯誤している。
現状、痛み止めとして自我を「記憶」ベースに考え、
完全な記憶喪失=輪廻転生=完全な無としての死
とイコールで結びつけて落ち着けている。
しかし、これはせいぜい、不安を幾分か抑制する程度の緩和にしかなっておらず、信仰や悟りには敵わないのが現状。
また、死に限らない、形而上学全体に手を伸ばす方向性も検討する。
この記事では、私の現状の人生である四半世紀のうちに考えた死生観を羅列し、上の結論に至るまでを解説する。
それと、略歴上では所謂「死後の世界」についても触れるが、個人的には「自我があれば肉体の有無に限らず生きている」判定なので、死後の世界は地獄だろうと天国だろうと幽霊だろうと神との迎合だろうと「死」とはみなさない。それはただ「生きてる場所が移動したもの」として考える。
死はあくまで、「自我の消滅としての死」を基本とする。
(もしかしたら神と一体化することはそれに含まれるかもしれないが)
略歴
ここでは私がいままで、死生観についてどのように考えてきたかを語る。
いま覚えてる限りを記すだけなので、全てではないはずだが、それでも結構な文量なので、何より「死の恐怖に対する克服」に対してここでは何も明示しないため、それを期待する場合ざっと読み飛ばしてもらっても構わない。
死後の世界の認知
小~中学生あたりの頃、オカルト系にハマっていたので、よく臨死体験した人のスレとか、幽霊を名乗る人のスレとかを覗いていた。
この頃には、死後の世界を信じていた……というよりは、そういうのを積極的に見て死後の世界があってほしいと期待と願いを持っていたかもしれない。
(今でも、私のホラー好きの理由の半分くらいは、現実以外の世界……非日常、非科学的な現象に対する期待と願いが含まれている。)
またかいけつゾロリの天国回とか、あとはツクールゲームで死後の世界を取り扱ったものとかもよく遊んでいた。FLASH動画では『終わらない鎮魂歌を歌おう』とかの、生死に関わる物語を好んでいたと思う。
ネットや物語以外ではどうかというと、そもそも「自分が恐れている解決しようがないことをわざわざ共有してもな……」という気持ちだったし、雑談のなかで死を取り上げる機会なんてそうそうないので、あまり話さない。
一般的な死のスタンスに対する考え
いざ話すときがあった場合、凡そ以下のような意見がよく現れるが、これらにはあまり納得がいかない事が多い。
「大人になれば気にならなくなる」
「夢を見ないで寝るのと同じ」
「実際に死んだらそう考える自我もない。つまり人は死を経験しないので、死後を不安がる必要も考える意味もない」
1に関しては、当時から疑いを持ちながら聞いていたし、今の年齢になった現在、やはり嘘だとわかった。
たぶんこの説に当てはまるのはせいぜい「会社勤めになって忙しくなったらそんなこと考える暇があまりなくなる」くらいだと思う。
2に関しては、死恐怖症の人からすれば、納得できないばかりか、考え方次第ではむしろ恐怖を増長させるものでもある一方で、実はまぁまぁ的を射ている……と感じる部分もある。
詳しくは後述する。
3はエピクロス系統の理屈だが、そもそも「死に対する恐怖」はあくまで「生きている今感じている恐怖をどうにかしたい」であるので、「そんなの考えたってしかたないよ」と言わんばかりのこの理屈にはまったく意味がない。
……というように、死に怯える人にとっては、比較的そうではない人の考え方はどうにも響かない事が多い。
転生観
高校生になって、いろいろと理想的な死後の世界を考えたりした。
独自に考えたのは「輪廻転生はあるが、救済する存在(神や仏)がいない」という前提での転生観で、そうなると世界が終わったとき、魂の行く先がなくなる。それなら過去に転生すれば良いのでは?と考えると、最終的に、すべての生命が魂1つで循環することに気づいた。
自分の来世は自分の母親かもしれないし、自分の前世は数千年後の草食動物かもしれないし、あるいはほとんどの生は細胞のひとつとして一瞬の一生を過ごしてるかもしれない。
革新的なものを考えたかもしれないと思ったが、何年かあとに偏在転生観という名前が既にあったことを知った。また偏在転生観について調べると、やはり同じような経緯をたどってる人が多いので、日本人にとっては案外行き着きやすい考え方なのかもしれない。
(そもそも、偏在転生観というワードを知ったのは、やはり同じような経緯でそれを知った、アプリゲームALTER EGOの制作者によるツイートだった)
FGOの影響でフローレンス・ナイチンゲールについて調べていたとき、彼女がクリミアへ行く前の思想書で記していた死生観も気に入っていた。
「病気の原因から惑星の軌道に至るまで、この世すべての法則は、唯一神が"病気の原因はこうである=だからそれを避ければ良い"と提示しているものであり、人は観測と統計によってそれらすべてを解明でき、やがて死や苦痛なども克服すれば、現世そのものに事実上の天国を作り上げることができる」という感じの内容だったと思う。
驚くべきことに転生観も取り入れており、「死後は未來に生まれ変わることで、過去積み上げてきた統計記録を引き継いで次のステップに進み、より全能な世界に近づいているのだ」と考えていた。
一神教をベースにしつつも、唯物的な視点も仏教的な視点も取り入れ、天国とは高次元にあるものではなく、未來に創られる現実である……という考え方だったのだろう。
独我論
それからしばらくは、独我論寄りに傾向した。
またユクスキュルの環世界などにも影響を受けていた。
また「人類全員が月を目視してないとき、月が変わらず空に存在していると断言することはできない」とか「誰もいない場所で木が倒れたとき音は鳴らない」みたいな、認知論的な考え方もある。
死の先が無だとすると、生の前も自分にとっては無である。
自分自身の目で生前も死後も観測できないのは、無いのと同じではないか?
つまり、「世界とは私が生まれる瞬間に誕生して、私が死ぬ瞬間に滅亡するものである」といっても過言ではないのではないか?と。
この理論は今でも薄らぼんやりと近くにいて、たまに自身を慰めてくれる考え方のひとつでもある。
(もしかしたら独我論よりももっと良い呼び方がある思想かもしれない、他者の存在を否定してるわけじゃないので……)
実存主義
専門学生になって以降、昔教えられたAmazarashiをふと聞き返して、ドハマリしはじめた。
そこからさらに何年か経って、歌詞の意味を調べはじめ、実存主義哲学を知り、哲学書を読み耽るようになり、今に至る。
実存主義哲学者の理論を包括的にここで述べるのは無理があるが、多くの場合、「今を一生懸命生きよう」を主軸として、その理由を理論的に考える。
例えばメメント・モリ的な考え方。
「人はいつか死ぬと思い込んでるけど、実際は"いつか"どころか、明日にでも不慮の事故で死ぬかもしれない。だからいつ死んでも後悔しないよう、日々を全力で生きるべきだ」のような……
この結論に至るまでのいろいろを省いてるので陳腐に聞こえるかもしれないが、あくまで話の流れとしての解説だと思っていただきたい。
実存主義は死や人生、存在、意味など、さまざまな観点から、生の活力を見出すことに長けている……と自分は思う。
そう思ったからこそ、自分はより活力をもって日々を生きれるようになった。
しかし、「よし!死を受け入れたぞ!」と覚悟を決めて生に対して前向きになるほど、生への執着が増して、死の恐怖がより大きくなってぶり返してくる。全然受け入れられていなかったことを思い知る。
これこそ夢で例えるといくらか分かりやすいかもしれない。
楽しい夢や幸せな夢から目覚めたときほど、「なんだ、夢だったのか」とがっかりする。
逆に、恐ろしい夢、悪夢から目覚めたときは「なんだ夢か……よかった」と安堵できる。
無論、耐え難い悪夢が毎夜襲いかかるような例外は別として、普段のバランスで考えると、どちらが「良い夢」なのか、ときどき分からなくなる。
ようはこれを、現実世界そのものでも感じている。
日々が幸せで満ち足りてるほど、それが消え去る死が怖くなる。
日々がつらく憂鬱なひとの場合は、希死念慮が付き纏うのだろう。
(当然、突き詰めれば人それぞれなので例外も多くあるとは思う。人生がどうであっても漠然と死にたいと感じる、より純粋な希死念慮を持つ場合や、どんなにつらい日々でも生への希望に満ち溢れた人はいるだろう)
こうした「充実感による生への執着」は言ってしまえば「我欲による生への執着」とかわらないように思える。両手いっぱいに価値あるものを抱えて、死後もそれを持って行こうとするが、それが敵わないことを知って恐れてしまうのかもしれない。
ただ、希死念慮を持っているからと言って、別に死を恐れてないとは限らない。というか「この世で生きていたくはないが、死は怖い。こんなに死を恐れてしまうのなら、生まれるべきではなかった」というタイプの希死念慮持ち・反出生主義も大勢いる。
なので、「この世への執着を捨てれば死の恐怖を克服できるか?」と聞かれれば、そう単純な話でもない。
実存主義者や厭世主義者(仏陀はその最たる例)は、最終的には自己との対話を続けて、我欲を捨て去り、死の恐怖の克服も獲得している。
あるいはそうでなくとも、そうすることで死を克服できるという理論を組み立てる哲学舎も多い。
しかしすると、結局こうした「死を受け入れる」という手段での克服は、実質「悟りを得よう!」と同義で、ひどく困難で、到達できるかもわからない険しい道のりに感じる。
虚無的な孤立感
そうなると、ふたたび死の恐怖が襲いかかる。
それも哲学という論理武装を抱えた結果、より大きなものとなって。
一気に世界に対して疎外感というか孤立感というか、奇妙な感覚が襲ってくる。
この感覚を正確に第三者に伝える手段はまだ見つかってなく、たぶんカミュの言う「宇宙に放り出された感覚」としての「不条理」が近いのかなと思う。
自分がいつか死ぬということに向き合い続けると、生命の誕生から今に至るまで、数え切れない人間が同じような問題や恐怖に直面し、直面しながらも死を受け入れるほかに手段はなく、そうした人々が今はもう跡形もなくなっている……(死=無である前提の価値観の考え方だが)
そうやって世界を客観的に感じてしまうと、これがずいぶん大きな絶望になる。窓の外に見える家や、読んでいる書物や、あるいは自分の肉体そのものに、何か薄皮一枚かぶさっているような違和感が生じる。
自分の自我だけがひどく浮き上がって、自分のやること成すこと、他者のやっていることのすべてが無味乾燥に感じてしまう。
きのう何となく書いて消した、落書き以下の数本の線の記憶、そうした記憶にしかないほんの小さな出来事という存在に対しても、何か大きな漠然とした不安に変わってゆく。
別に「人生に意味はない」とはならないので虚無主義と言っていいのかわからないけど、とにかく、虚無主義に抗うために育て上げた思想が、より広大な虚無を呼び寄せてしまったようになる。
そして日々ずっと、不安と恐怖に苛まれ続ける。
「まさか本当に私って死ぬのか、実はドッキリとかではなく?」と。
虚無への対抗案
そんな恐ろしさの感覚に苛まれて参っていたのがここしばらく。
こうなると仕事にまったく手がつかなくなるのでまぁまぁ困る。
冒頭で書いたように、たぶん部屋に閉じこもって哲学書を読みすぎたゆえのクォーターライフクライシスだろうと無理やり方をを付けようとしている。
前提として、死について考えるのは徒労だ。
「どうせ死ぬから変わらない」という前提を真に定めるなら、たとえ死の直前にとんでもない恐怖に襲われたとしても、それ以外は一切死について考えずに、楽しく生きたほうが絶対に良い。
仮に80年かけて死について考え続けて、自分なりの答えを見つけて死を受け入れたとして、90歳で死ぬ直前になって、急に自分の編み出した真理がほどけて、恐怖に怯える可能性だってじゅうぶんにある。
あるいは、死について考えずに楽しく生きて、死ぬ何年か前に徐々にボケ始めて、死ぬときにはもう何がなにやらわからないまま恐怖も何もなく死ねる可能性も当然ある。
もしくは、死について何も考えてないタイミングで、不慮の事故によって痛みも恐怖もないまま呆気なく明日にでも死ぬかもしれない。
しかし、それでも私たちは死について考えてしまう。
そして怯えてしまうし、それでもどうにか生活を続けなければならない。
ではどうすればいいだろうか?
一般に提示される対抗案として以下のようなものがある。
書物などから離れて自然と触れたりする
瞑想して悟りを目指す
病院に行く
1はもっとも簡単にできるし、多分クォーターライフクライシスを患った人が「自分探しの旅」などと言って動きがちなのには、死に限らずとも、自己の人生の悩みからの回復を目的とした側面があるのだろう。
2瞑想して悟りを~と聞くと宗教臭いが、宗教だろうがなんだろうが死を克服できるならそれに越したことはないし、また、哲学書をいろいろ読んだ経験上、「悟り」的な概念は「自分だけの最強の死生観」みたいな意味合いだと感じているので、極めて有用で実践的だと思う。
ただし、難易度はべらぼうに高いだろう。
3病院も現実的でやりやすい手段だとは思う。実際、死恐怖症レベルの人は病院に行くことも多いようだし。なにより医者は人の生死をたくさん考える職業だろう……というこちらの勝手な思い込みがあるので、プラセボ的に心が安らぐ可能性もある気はする。
ただ、自分は別に過呼吸になったり、発作を起こすような段階では全然なく、せいぜい仕事が手につかない日が出てくる程度なので、現状で医者にかかったところで「みんなそんなもんですよ」で返される可能性は全然ある。のでまだ行くには早い気がする。
死の痛み止め
冒頭の結論で先取りした話。
と言っても、そこまで特別なことは特に語らない。
まずは「夢を見ないで寝る」の否定について。
そもそも、人間は基本的に毎夜、夢を見ている。
単純に夢を忘れているだけである。
ここらへんは夢研究をしてる人のいろいろな実験で凡そ明らかになっている。(ただし、夢は極めて主観的な現象で、脳波の活動をみる以外だとせいぜい叩き起こして本人に聞く……くらいしか手段がないので、確証はない)
そしてまた「忘れてるだけ」という事実は、「夢を見ないで寝た」という感覚が、「起きた後に生じている」ことも確立してしまう。
10分寝ようが、1日寝ようが、起きて、寝てるあいだの記憶を忘れて、時計を見て、そこではじめて「夢を見ずに10分(1日)寝たな」と感じる。
時刻を把握するまでは、「あれ!?どのくらい寝てた!?」となることが多い。
仮に「死=夢を見ないで寝てる」と考えると、わたしの寝てる感覚は起きてから生じるものなので、「死後、次に起きるまで世界が終わり、終わった世界のその後も含めて無限時間が一瞬で過ぎ去り続け、結局起きることもない」ということになり、理解の範疇を越えた恐怖が生じてしまう。
……これは言葉に囚われてるから生じるもので、この理論で考えるだけ、無意味に自分をいたずらに追い込んでしまうのだと今でこそ言えるが、そう思えるようになるまでは結構な期間、苦痛に苛まれた。
しかし、この理論はヒントを与えてくれた。
「忘れているだけ」という部分である。
そう考えると、死と忘却を結びつける死生観はもうひとつある。
輪廻転生である。
輪廻転生は、ある意味で「魂が引き継がれる」安心感というか、「前世でこうだったに違いない」「来世でも会えるように~」などと、今生きてるわたしの、何かしらの要素が、引き継がれ続けるかもしれない希望として語られやすい。……少なくとも現代においては。
しかし、実際に転生したとて、そして引き継がれていたとて、それを前世や来世のわたしが認識することはない。
そう考えると、主観的な自我を主軸にすると、「転生しているか否か」を判断できる部分は何一つとしてない。それどころか、それを判断できるのは世界の外側の超越的な存在のみ(いればの話だが)になる。
何を当たり前のことを……と思うかもしれないが、「実質、輪廻転生と無としての死は、主観的にはイコールである」というこの事実は、当たり前に見える文章以上に、効果がある。少なくとも無としての死に怯えるものにとっては。
より現実的な例として挙げるのが、記憶喪失。
ここでの記憶喪失は、言語も何もかも失った状態が理想だが、そうでなくとも、一般的に想像する「ここはどこ?私はだれ?」状態でも良い。
ただし「死ぬまで記憶が残らない」を条件とする。
さて、この場合「記憶を失う前のあなたは生きている」と言えるだろうか。
ここらへんは人によって考えが異なると思うが、少なくとも「わたしという自我」は死んだに限りなく近いと個人的には思っている。
むろん、記憶喪失の場合、それまで育ってきた身体、身にしみたスキル、家族や友人などの交友関係など、「自分が築き上げた自我以外のもの」は存在するので、輪廻転生とは違うのだが、「記憶がない状態で生をやり直す」という点においては、輪廻転生とよく似ているし、また「前の記憶」という私が事実上死んだこともよく似ている。
極めて唯物的に考えれば、私という自我は脳の細胞というメモリー媒体や、そこを通る電気信号の蓄積であり、記憶喪失がその蓄積の一切を失うことだとすれば、やはりそれは自我の死である。
たとえ魂という概念が存在し、転生を繰り返していても、やはり私という自我は死のたびに洗浄され、空のメモリーとなって私以外の誰かになる。
そして無としての死も、私という自我はただ電池切れになったように失われる。
こう考えると、記憶喪失や輪廻転生が僅かに怖くなるが、死の恐怖は僅かに薄れる……ような気がする。
とはいえそもそも「記憶の忘却」の段階から恐れている人もいるだろうし、そういう人にとってこの理論は効果が薄い。
だが、「夢を見ないで寝た」例にみられるように、短期的な忘却そのものは、日常のなかで毎日のように発生している。
忘却前と後の連続性が保たれているという違いはあるが。
忘れた夢→記憶喪失→転生→死……と、段階的に、グラデーションのように見れば、互いの隣には小さな違いしかない……と思い込むことは、僅かながらできるのではないか……?と思える。
いや、そう思い込むことで、幾らかの安寧を得ようとしている。
これが現状の、死の恐怖に対する応急処置的な痛み止めとなっている。
死単独から形而上概念に枠を広げる
四半世紀を過ぎた今、そして今後、どう死と向き合うべきか。
その答えはおろか、正直候補すらも出てはいない。
ただ、直近では時間について考えるのが良いかなと思う。
少し前から、「過去とは痕跡に過ぎず、未來は予測に過ぎず、実は"今"しか存在しないのではないか?」という考えがあった。
これは別に死の恐怖に対するスタンスとはあまり関係がない(少しは関係がある)きっかけによって浮かんだ疑問だが、そういえば友人から貰った本でちょうど時間に関する形而上学のものがあったなと、今読んでいる。
西洋ベースの哲学ではどうしても、時間とは過去から現在、そして未來へ進んでいくもので、現在とは0に限りなく近い瞬間であるという考えが抜けないところがあった。逆張りする哲学者などは当然いるが、だいたい「時間は永遠で終わりも始まりもない」みたいな方向性で、時間そのものを疑うことは少ない。
友人から貰った本は日本人哲学者によるもので、伊佐敷隆弘の『時間様相の形而上学』というものだ。この本自体2010年と、そこまで古くないが、2019年にはカルロ・ロヴェッリによる『時間は存在しない』という本が現れたりした。(翻訳本の発売年なので、本国ではおそらくもっと早い)
ほぼ同時期に、西洋でもそうした考え方は現れているらしい。
死の恐怖に怯える私たちも、どうしても過去の積み重ねだとか、遠い未来の文化やその崩壊、世界の終わりとかまで考えてしまうが、そうした一直線的な時間を疑い、時間軸ではない、純粋な変化としての世界の動きをとらえることで、何か新たな視点を得ることが出来はしないかと考えている。
「自分という存在も、自分が残したものも、死んでしまっては何一つ残らない」という感覚のなかには、幾ばくか、「今まで残ってきた過去の積み重ね」や「これから積み重なっていくであろう未來の数々」を前提としてるから不安になるのであって、時間の意識を取り除いたら、未練による死の恐怖程度なら、多少はマシになるのではないか、と。
むろん、かえって死の恐怖を増長させる結果に終わるおそれもあるが。
思えば、形而上的な問いの多くは、死と同じくらいわからないことが多い。
宇宙・世界が始まる前、外側、終わるとき。時間。そして永遠。
おそらくこれらすべてを深堀りしても、死の解決にはならないだろう。
似てるとはいえ、もしかしたら人類がやがて到達できるかもしれないその他と違って、到達できないことが死の条件なのだから。そして、解決になるのなら、とっくに自然科学はそうなっているはずだから。
しかし、死の恐怖に対して、死の土俵で考え続けても敵わないのなら、その外側に立つ必要があるかもしれない。
それでだめなら、そのときに考えるしかない。
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