新卒でホワイト企業に入ったけど、辞めたくなった話。
新卒でひとり暮らしをはじめて思ったことを脈絡なく綴った日記のようなものです。とりあえず一週間分。
1日目
存外、寂しくて三回も泣いた。
実家が嫌いだった。最寄り駅まで車で30分、バスは一日3本。そもそもバス停まで歩いて40分かかる。多くの人が聞くだけで嫌になりそうな山奥にある新興住宅地。そこに住んでいた。それでも22年間、実家を出ずに過ごしてきた。家が貧乏だから、少しでも節約しなければならないと思い、高校へは片道1時間半、大学へは片道2時間半かけて通っていた。「お金がないからだ。」そう、思い込んでいた。
いざ、この実家を離れるとなると未知の世界が怖くて、独りぼっちが寂しくて、たまらなくなった。本当は、離れたくなかった。この気持ちに気が付いたのはだいたい、出立の一週間前であった。それからは出立までの毎日がどんどんと重い一日になっていった。もうこの時点で「地元で暮らす術は無い物か、市役所職員はどうだろうか」などと考え始めていた。
就活のときは望んでいた都会での一人暮らしもさして楽しそうに感じなくなってきた。母の料理が食べられなくなるのが寂しかった。どんな話でも聞いてくれる母ともっと喋っていたかった。仲の良い妹と一緒にゲームをできなくなるのが寂しかった。もっといろいろ遊びたかった。父の事は嫌いだった。私のすること、しようとすること全てに文句を付けられ、自由に買い物も出来なかったし、進学先だって結局、父がうんという場所を選んで進んだ。なんなら全国転勤のある今の会社に入ろうと思ったのも父が納得する立派な企業へ勤めるためであり、そして父の呪縛から逃れるためだった。でも、本当にそうだっただろうか?父の「私への指図」は間違いなく嫌いだった。でも、「父」のことは嫌いだっただろうか?父のことも好きであったことに頭の中の理性の部分が気付いたのは会社の研修寮に入ってからだった。本当は、心の中ではわかっていたことなのだ。私は家族のことが大好きだし、そう簡単に離れて生きて行けない。私は妻が欲しいと思わないし、多くの友人も欲していないが、それはひとえに家族との絆が強くて、今の家族以上の「家族」を見つけられなかったからだろう。
出立前日、家族におやすみといって寝る時。出立当日、離れる実家を見て回るとき、駅で見送ってもらったとき、それ以外にも何度も泣きそうになった。寮に入ってからも何度かしんどくなって、ひとりでシャワーを浴びながら、とうとう泣いた。それから母に教えてもらったことを思い出しながら料理を作ってまた泣いた。父から託された手紙と妹から餞別に貰った似顔絵を見てまた泣いた。人前で泣いてなるものかと強がっていたが、今では家族の前で泣かなかったことを後悔している。泣いていれば、「もう行かなくて良いよ」と声をかけてもらえたかもしれないから。そんな卑怯なことを考えている。
2日目
翌日、実家を出る時に送った荷物が届いた。昨夜はよく眠れなかったから使い慣れた枕が届くのがすこし嬉しかった。段ボール箱を開けると、入れた覚えのない封筒。なんてベタな展開だろうと思ったが手に取る前から涙があふれ、「母より」の字を見て届いたばかりの枕を濡らした。
ここへ来てから虫を見ていない。土すら珍しい。車とビルとアスファルトと、そんなもんだ。耳を澄ましたって聞こえるのは車の音と、サイレンと、隣人の蠢く音。吹き抜ける風の音さえ、田舎のそれとは違って感じた。
同じ研修寮の同僚たちと話してみたが、なかなかどうしてこうもしっくりこないものなのか。そこそこの優良企業に就職したつもりだったが、周りのやつらはバカばかり。勉強ができないとか、頭の回転が遅いとか、そういう事では無くて単に不真面目でやる気のないということだ。公立中高一貫、地方国立大学と進んできた私にとっては衝撃的なほどの意識の差であった。もっと他のやつと話せば良い奴も見つかるだろうか。
3日目
カーテンの隙間から見えるのは向かいのマンションの階段だけ。踊り場の蛍光灯がやけに無機質に積みあがっていた。10階、11階……どこまでも続いているようで嫌になる。窓から空が見えない生活なんて考えてもみなかった。仮に空が見えても、ここは明るすぎて星は見えないだろうが。
三日目の今日は流石に泣かなかった。でもそれは、両親からの手紙と妹からの似顔絵をスーツケースに隠し、現実から目を背けていたからだろう。近いうちに、具体的には2か月くらいでここを辞めて実家に帰ろうかと画策するあまり、こころの方が「もうすぐ帰れるのだ」と勘違いしているようだった。頭ではそう簡単な話ではないと分かっているのに。
適性検査の結果が返ってきたからじっくり見てみると、どうやら私の営業職適性は偏差値30以下らしい。今まで偏差値と名の付くもので50を割ったことなんてなかったものだから少しばかりショックだった。過去にやった自己分析の結果と全く一致していたから当然だろうとも思ったが。LINEで家族に見せてみたら、「検査結果なんて気にするな、自分で自分を決めつけたらそこで負けだ」と言われた。励ましてくれているのだろうし、部分的に正しい意見なんだろうけど、結果が評価される世界で生きてきた身からすればどうも響かない。やりたくない上に向いてない仕事ならやらない方が良いんじゃないかとすら思う。「帰りたい」という気持ちがそう思わせるのかもしれないけど。検査結果では「物事を悪い方に考える傾向がある」とも書いてあった。やはり、全くその通りだ。
4日目 4/1
とうとう入社式だったがどうもピンとこないものだ。研修寮からのオンラインだったし、内定式の時とさして変わらない印象だった。社長の講話や各グループ企業社長のお話を伺ったが、やはり優良な会社に入社できたなあという印象だ。管理職が怠けて腐らないように様々な施策がなされているし、若い社員が頑張ろうと思える制度も多い。間違いなくホワイト企業だろうと感じている。しかしどうも惹かれない。理由は簡単で、自分が営業という仕事に魅力を感じていないからだし全国転勤に嫌気がさしているからだ。ホームシックというのはとても恐ろしいものだ。一年前、私はとにかく家を出たかったはずだ。ホームシックなんてならないと思っていたし、ひとりで生きていく自信があった。確かに能力的には問題ない。この四日間、洗濯も買い物も毎日きっちりこなしている。自炊だってしている。今日はオムライスを作った。野菜も意識してしっかり摂っている。なんなら数十人もいる同期の中で一番生活力があるのではないかとすら思っている。でも、そういうことではないのだ。こころがついてこない。歯磨きをすれば毎回出血し、お腹の調子も悪く下痢気味だ。睡眠もいまいちぐっすりとはいかない。使い慣れた枕のおかげで寝つきはよいが目覚めがすこぶる悪い。深夜や早朝に突然目が覚める。土日はゆっくりできるだろうか。毎週楽しみだった競馬がどうも楽しみに思えない。家族とあーだこーだ言いながら見る競馬が好きだったから。
とはいえ別に悪いことばかりではなく、良いこともあった。会社で積極的に初めてのことを行う勇気が出たことだ。理由は、「どうせ辞めるなら全力で失敗してやれ」というやや消極的なものだが。いつまでこのいびつな生活が持つか分からないが、できる限り多く吸収して地元での有利な就職を掴みたいものだ。件の適性検査結果を鑑みるに、何らかの裏方スタッフ、一般事務、エンジニアなんかが向いているようだ。偏差値70オーバーらしい。意外とレジ店員なんかも向いているように思う。なんにせよ、両親の介護と自分の老後の面倒が見れるようにライフプランを立てねばなるまい。私の金遣いが人一倍丁寧なのがせめてもの救いだ。
5日目
探偵ナイトスクープというTV番組で「亡き母の愛車コルトとの別れ」というお話が放送されていた。タイトルの通り、今は亡き母の形見である車とお別れをする内容だった。その話とは違い私の母は健在だが、母から引き継いだ車「ワゴンR」がそれと被って見えた。私が順調に今の会社で働いていれば、私のいないところでこの車は廃車になってしまうだろう。私はワゴンRが好きだ。免許を取ってから私を様々な場所に連れて行ってくれただけでなく、私の中学、高校時代の送り迎えの一翼を担ってくれたのもワゴンRだ。21年間も一緒だった。家族以外で特に長い付き合いだ。実家へ帰ってまたあいつに乗りたい。
今日は高校時代からの友人とオンライン飲み会をした。毎週やっている定期的なやつだが、今までと違うのは私のいる場所だ。皆は院に進学したからあまり変わらないが、私だけが違う。みんなは私を励ましてくれるけど、私はどうにかして家に帰りたいと思うばかりだった。
6日目
一人で迎えるはじめての休日。金曜の夜、夜がふけるまで隣人が騒いでいたから寝つきは決して良くなかったが、朝はゆっくりとできた。とはいえ目覚ましよりも先に目覚めてしまったけど。朝食をすませてから少しばかりゆっくりして、それから買い物に出かけた。買い物にはほぼ毎日行っているため、特に変わったこともなく最低限の食料だけを買った。豆腐が安くても60円以上したことにはとても驚いた。地元では20円くらいからあったのに。もやしを買った。
帰宅後は競馬を見た。あまりパッとしたのが見つからなかったから100円だけ掛けて、見事に外した。やはり実家にいた時ほど楽しめなかった。
7日目
今日も買い物に行って、競馬をした。今日の競馬はそこそこ楽しかった。G1だったのもあるけど、家族とLINEで話しながら出来たことの方が大きい思う。
夕方からはひどく調子が悪かった。栄養バランスも運動量も睡眠も十分足りているはずだけど、頭が痛くて体がだるかった。今日は早めに寝ることにする。