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He's back and he's here.

※この記事を読み進めていただく前に、ひとつ、言っておきたいことが。
ありのままを綴っているということ、包み隠さず綴っているということを。
私を知る人にこそ呼びかけたく、前置きにならない前書きをここに記します。







ここ最近続け様にみるイメージがある。朝目が覚めると、必ず。
”わたし”は白いシャツを着て、ベッドに無造作に横になっている。
前ははだけている。
どうやら気を失って眠っている。
そこに、近づいてくる女が一人。
女は眠る”わたし”に近寄ると、”わたし”の胸に手を置き、
愛おしそうに撫でる。
手は、そのまま下へ、ゆっくりと下がる。

やめろ…

このときの”わたし”は男だ。


毎回このシーンを見る。

誰(何)か に捉えられた”わたし”は、身動きが取れないまま
意識もないまま、耐える。ただ、ひたすら、耐える。

この光景を見ているのは、ちょうどカメラアングルが切り替わるような、
その場面を俯瞰しているようjな、そんな風に第三者的な感覚でみている。

さらに断片的にも。これらのシーンがどういう順番なのか全てはわからないが、

あるシーンでは”わたし”の方から女に近寄り、
唇を重ねそうになるが、既の所で止める。
”No. Not now. ….Not yet.”
と言うのだ。


  
これを見るようになったのは、あることがきっかけだ。
  


久しぶりに何度か顔を出す感じ。
これまでのように、ずっといるわけではなく、
スッと出てきてはふっと消える。

見慣れた風貌の”彼(わたし)”

おお、久しぶりじゃんか。なんできたの?何を見せにきたの?
って聞くと、
ああ、そうなの。っていう理由。

彼のいろんな姿見る中で、

ほら、あのこと書いたら?

と言われたかのようなトピックが。


ジェンダーフルイド。


この話に入る前に。
これまで自分の性のことや内側のさらに内側のような話を書くこと、人にいうことはしてこなかった。
なぜか。
ジャッジを恐れたからだ。
誰の?他者の、そして、自分の。

出す、ということをすれば、そこに責任が伴う、ちゃんとlook afterできるのかと自問しては押し込めてきた。
そもそも出す必要なんてないんじゃないの?
結局そこに行き着き。

怖がっていたんだ、結局。

ではなぜ今になって書くと決めたの?
答えがあるんだが、うまく書けない。
簡単にいうと、そうしたいと思ったから。
カミングアウト?ううん、ちょっと違う気もする。
宇宙の天体がそうだからか、ただタイミングなのか。
どうでもいいのではと言いながらとても大切な部分だが、
ここは私本人がわかっているので、それでいい。


話を戻して。

ジェンダーフルイド。

この年(歳)になるまで、こんな言葉が存在しているだなんて、
知らなかった。

ジェンダー・フルイド(gender-fluid)とは、性自認(こころの性)が複数の性のあいだで揺れ動くセクシュアリティです。不規則に変わることもあれば、場面や状況に応じて変化することもあります。

いつから、なんだろうな…

先に言うと、どうも私はジェンダーフルイドのようだ。
ジェンダーレス、とはまた違う。
わたし は女性で、男性と結婚しており、母であり。

ただ時折自分の中のある ”バランス”が、ぐわら。と変わるような感覚がある。
それはどうも、私が ”誰といるか” によって決まるよう。

決まって私が わたし といる時、つまり一人でいるときは
男になったような感覚を感じることが多い。
しかも夜になると、そう感じることが多い。
お風呂、眠る前、運転中もそうだ。

一番わかりやすかったのは、女性を見るときの自分の感覚。
常に、ではないし、女性全員が対象かと言ったら
そうではないのだが、
例えばある素敵な女性を見かけて、
”いい女だな” そんなふうに女性を見ていることに気がついた時は
正直、やっと認められた、と思う安堵感と、shit, なんだこれ。と言う少しびっくりしたその気持ちが入り混じった。

男性が感じるであろう身体の感覚も、なんとなくわかる。…気がする。

私の場合、ちょっと不思議な入り方をしていて。
それは私がチャネリングをするから、と言う理由で
ある人物の存在を通し、ものすごくリアルにその感覚を感じることができたことから始まったのかな、とも思ったことがあった。
なのでしばらくは、私が感じているこの感覚は、リアルな人間の感覚とはまた異なるものなのではないか、と思っていた。

けれど遡るとかなり昔からそういった気があったことに気がつく。
(あまり詳しくはここでは書けないが)
あ、らんま1/2とか好きだったなー
男から女になるとか最高じゃん!って思ってた。
あと、男っぽい女の人とかも。格好とかじゃなくて、中身、が。
今はその逆もすごく好き。

この際いつからとかはあまり関係なくて、
今そう感じる、と言うことが事実なのであって。


未だあまりこういった同じ感じの人とちゃんと話したことがないので、もし話せたら聞いてみたいことがあるんだけど…

うーん、今はまだ書くのはよそうかな。


この感覚を持つことで少しずつ見え隠れすることがあるのだが、
それこそまだ言葉にできない。
映像でしかみれていないから、でもあるが、
確実に感じ取っていることは、ある。

ひとつは。
私が自分でじぶんを制限するような思い込みをすべて手放す時がきているようだ、ということ。


”もう十分我慢しただろう もういい
自分がどういう人間なのか、何をしているのか
少しずつでもみせていけばいい
…僕らのこと、使って”


人や存在を使う、だなんて、したことない、しようと思ったこともない。


”お前の捉えている「使う」と、また違う 
それに、お前は既にもう、している
いい人ぶるな”


いい人ぶる。私の得意技。
誰からも好かれるように。誰をも愛するように。
人から嫌われないように、人を嫌うこともせず。

水瓶座っぽいのかもしれないが、
私は確実に蠍の毒針を水瓶の底に隠し持っている。

誰でも、なんかじゃない。
決めてるのだ。

相手の出方次第で、その場で切るか、決める。
その相手が私にしたことの内容によっては、
意識と想像の中で、もっとひどいことだってする。
そうするとその人物はもう寄ってこれない。
いや、私が寄らないのか。

一度、これまでの中で自分があまりに傷ついたがために、
危うく悪魔と契約をしそうになったことも。

そんな奴のために、今後の生全てに契りを縛り上げたくない。
そんな価値もない奴のために。
(ちなみにその相手は私に怨念を送ってきた。その人の行く末をあるとき望んでもないのに突然見たのだが(いや、望んだのか??)…悲惨だった)

私がこれまで他者に対して、思ったこと、それがネガティブなことだった時、それを相手に「言わない」を選んできたことを
自分で憎んだこともあった。
けれどそれをしないには理由があって。
きっと、堕とし込めるんだ、人を。
堕として堕として、もう戻ることがほぼほぼ不可能になるんだ、相手も、もしかしたら自分も。


自分のホロスコープを読んだ時、あることをみた。
言葉によって、またはコミュニケーションによって、

生を閉じたことがある。

それは言ったから、と言わなかったから、の両方で。

これがあったからこそ、今世は封印してきている部分がきっとあるのだ。

”そっちに行くな”

だから聞こえる。
これまでの”わたし”と、これからの”わたし”が、
止めてくれる。=自分で止めてる。んだが。

話があちこちにいってしまった。

これはもはや自分の記録用だな。

「現時点では、こうだよ。」という。


ただ時折自分の中のある ”バランス”が、ぐわら。と変わるような感覚がある。

そう、今私がものすごくみているのは
バランス
それは時に性であり、過去未来であり、上と下であり、精神と肉体であり。
だからこそ、そんな私がみせられることもあり。

その バランス を取るためには、自分自身が本来のじぶんで存在しておく必要がある。
まっさらな、自分で。

太陽の光を浴び、地平線を見つめて。


06.05.2024 in the middle of the peak of Bull's Gate
With lots of love and gratitude

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