愚痴っていいっすか
会社に10月から参加してほしいといわれていたプロジェクトの開始が大幅に遅れているらしく、ゆえに私は別のプロジェクトに一時的に参加していた。そこでは役割に応じて複数の会社の人間が集められており、我が社の人員を率いるリーダーはアライであった。
ある朝、廊下の自販機でコーヒーを買っていると、B社の役員のイシハラが歩いてきたので挨拶をすると、まるで私が見えていないかのように目の前を素通りしていった。なにか考え事でもしていたのだろうか?彼にはどんな役割が課されているのだろう?職場をうろついている以外の場面に遭遇したことは、まだ一度もなかった。
我が社のリーダーであるアライは、物事を非効率に進める能力に長け、常に行き当たりばったりで仕事をする。必要な情報、材料、用具が不足していなかったことなど決してなく、常に後手に後手にと物事は遠回りを余儀なくされる。彼はなぜリーダーとしての任務を許諾したのか?己がその器たりえぬことなど、たとえそれが、どの季節であろうとも悟りえたであろうに。疑問である。
なにか物事を順調に進めてはいけない重大な理由でも隠し持っているのかもしれない。そうでなければ目の前で星の数だけ巻き起こる事象への説明がつかない。後輩であるクラタは言う。「無駄なことばっかりさせやがって、アイツいつかぶっ殺してやる!」と。たとえそれが、いつ何時、どんな理由であろうと、ぶっ殺してはダメである。
ある朝、廊下の自販機でコーヒーを買っていると、B社のキズキさんが歩いてきたので挨拶をすると、一瞬だけ目が合った気がしたにも関わらず無言で素通りしていった。なにか彼女が不快になるようなことをした覚えはない。疑問である。
私にとってつらいのは、アライが昼食時以外は、まったく休憩をとらずに仕事を進めようとすることだ。それが急を要する仕事であるならば不満も異論もまったくない。しかし計画性がない中で、それでもダラダラと仕事のことを考え続けなければならない時間が、私には苦痛で仕方がなかった。
休憩時間は社会の荒波の中を行きわたるための息継ぎのようなものであると私は考える。いったん仕事のことは忘れて、使えたら便利な魔法とか、新しい必殺技とか考えたいじゃない。頭ん中リフレッシュしたいじゃない。部下にひと息つかせているスキにアンタは軍師くらいナイスな戦略を練ればいいじゃない。
アライのもっともやっかいな部分は彼が善人であるという点だ。高圧的な態度など誰に対しても皆無だし、他人の失敗を責めたりするようなこともしない。ただただ物事を円滑に進めるための視野が水中くらいせまいだけなのである。ゆえに彼の指示を無下にはできない環境がかろうじてギリギリ保たれてはいるのだ。気を抜いたら、ぜんぶ出ちゃいそうなくらいパンパンではある。
アライの不在が諸事情により何日か続いたので、必然的に職場で他社の人とのコミュニケーションが増えていった。顔を合わせるたびに世間話に応じてくれる気さくなA社のミズホさん、仕事上のわずかな懸念でも気づけば相談を持ちかけてきてくれる真面目なC社のイチカワさん。
ある午後の休憩あけに、クラタと二人で廊下を歩いているとB社のキズキさんが駆け寄ってきて、クラタに仕事上の質問をすげえ勢いで投げかけ始めた。この時、私は確信した。ああ、彼女は私のことが嫌いなんだと。避けていきたいのだと。
誰がどう見てもサブ的な立ち回りをしていたのは私である。同じ場所で働いている人間であれば気づかないほうが不自然だ。クラタは質問の内容を、まったく理解できず、すぐに私に話をふった。差し向かいでは、さすがの彼女でも見ぬふりはできない。そんな彼女に私は誠実かつ丁寧に対応すると、彼女は私に感謝の言葉を告げ、その場を後にした。
あたりまえのことを、あたりまえにこなしているだけで、仕事の効率は急速に進歩していった。次の日の朝、眠い目をこすりながらも、いつもの自販機でコーヒーを買おうとしていると、ある女性の声がきこえてきた。
「おはようございます」
やたらと好意的な様子が声色からも伝わってくる。「あなたよりの寵愛を心から欲しています」と言わんばかりに。その声の主はミズホさんでもイチカワさんでもなくキズキさんだった。昨日のあれが効いたのだろうか。
彼女はきっと、見た目の怪しい男とのコミュニケーションに対して小動物のように臆病であっただけなのであろう。「こわくない、こわくない、ほらね、こわくない、おびえていただけなんだよね」私がガラにもなく、春の陽だまりのごときポッカポカのスマイルを顔面にはりつけたまま、彼女のほうへと振り向うとした、その時だった。
「はい、おはよ〜」
B社の役員のイシハラであった。この瞬間、彼女が挨拶した相手は私ではなくイシハラであることを悟った。二人は私の存在に1ミリたりとも反応を示すことなく別々の方向へと姿を消していった。
繊細な部分を噛みちぎられた感はぬぐえぬままに、自販機から取り出したコーヒーを飲んでいると、いつの間にやら何者かの影が、私の視界に侵入を果たしていた。
「おはよ〜、わるかったねぇ、何日もあけちゃって〜」
あたりまえのことが、あたりまえだなんて、ここでは甘いのがあたりまえ。眠気を覚ますには充分すぎるほどに、奥深い濃厚な苦味が、口内から脳内の隅々まで広大に染みわたった。