サイゴンの昼下がりの秘密!ファッション写真か、スナップショットか?
★だらだらと長くなるので、連載にすることにしました。あるいみ忘備録として、自分のために書いている部分がありましたが、読む側になって書くようにします。
重複している部分があるかと思いますが、よろしくお願いします。
サイゴン昼下がりの秘密 その1
この写真の初出は、かつてユニークな車評論誌NAVIの別冊「OP」のベトナム特集号で、右ページいっぱいに紹介された。発表当時から皆、モデルを使った、セッティングしたファッション写真だと思っていたようだ。僕が偶然撮ったスナップだとういうと、皆一様に驚いた。
そのなかで、一番極端な反応をしたのは、作家の沢木耕太郎氏だった。沢木は僕の世代にとっては、なんといっても「深夜特急」だ。前の世代の藤原新也「インド放浪」に続く、バックパッカーの神的バイブルだった。
そんな沢木が、ある時、突然ロバート・キャパ研究家、リチャード・ウイーランのキャパの伝記の翻訳を始めた。その顛末はたしかSWITCHで読んだのだと思う。そこではすでに、キャパの崩れ落ちるの真贋が語られている。
1994年に初めて僕はベトナムを訪れた。
行く前はまったく期待をしていなかった。今でいえば北朝鮮のような、世界から孤立した国だったからだ。
フランスやアメリカとの戦争に勝利はしたものの、貧しく悲惨で破壊されつくされた国だと思っていたからだ。
そんな僕が、ベトナムに惹かれ、それまで経験したことのない執着を感じたのはなぜなんだろう。
僕は1975年に篠山紀信氏のアシスタントを経て、フリーランスのカメラマンとなった。
最初の数年は雑誌を中心に、師匠がそうだったようなさまざまなジャンルに挑戦した。その後ファッション写真、広告に進む。CMもやり、NUDEもドキュメンタリーとなんでもやった。
フリーになり10年、1985年頃になると、自分が何をやりたいのかわからなくなっていた。
22歳でアシスタントになり、24才でフリーになるつもりだった。いろいろ事情があってフリーになったのが26才だった。いまでは十分若いけれど、そのころとしては決して早いほうではない。焦りがあった。
仕事を初めて知ったことは、ビジネス的には広告、面白いのはエディトリアル、ファッションや芸能グラビアだ。(人による)
広告は共同制作だ。ボスは年上のアートディレクターが多かった。何かを期待されていたが、僕にはよくわかっていなかった。
僕は年上の男たちと仕事をすることが不得意だった。アシスタント時代、
師匠が広告の仕事にまったく興味のない時代、だからフリーになるまで、アートディレクターやコピーライターの仕事をリアルには理解していなかった。なにしろ師匠は、コピーも構成も、全部自分でやってしまう。
広告の作法を知るのは、同世代と仕事をするようになってからだ。
広告の醍醐味は、お金だ。ギャラがいいのは当然として、何より、大きなお金を預かった命をかけた誰かがいるという仕事だ。たった100円の価値の商品を、何億もかけて宣伝する。そんなことに命ががかかっている。
成功するか失敗するか、真剣で、必死な人が中心にいる、フィクションとしてのスリルだ。
アートディレクターやプロデューサーはそういう人種だ。
広告カメラマンはチームのなかの、その力点の強弱はあるがそのなかのひとりだ。
エディトリアルは違う。その責任は、カメラマンが多くを担っている。何しろ広告は匿名(業界内で知られている)だ。エディトリアルは、撮影者の名前が記されている。だからだめなら馘。かわりはいくらでもいる。もし失敗しても、決定的なことではなければ、一週間、1ケ月おとなしくしていればいいともいえる。運がよければ何度かチャンスは与えられるだろう。
正直、雑誌の編集長とよくトラブった。かわいくないんだろうな。あまり好かれなかった。年上のアートディレクターにもあまりすかれなかった。
20代後半から、30代になると同世代のアートディレクターが増えた。広告が増え、エディトリアルは少し減った。
はたから見れば絶好調に見えたかもしれないが、
悩んでいた。自分がないからだ。特につい師匠と比べて、そのパワーとボリュームと、企画力、実行力に、次元の違いを感じた。
だから、こそ自分の写真は何かに悩んだ。
1985年新宿京王プラザホテルの一階ロビーフロアにあった、ニコンサロンで初写真展を開催した。仕事ではないプライベートのモノクロ写真だ。
ニコンの人に相談したら、審査というか、会長写真家三木淳氏に、丸の内のビルのひろびろとした会長室に呼び出された。ソファー、そして広々とした低いテーブル、そこに僕は挨拶しながら三木氏の前に作品を置いた。
すると三木淳は立ち上がり突然怒り出した。
写真を見せる態度じゃないというのだ。そして僕の写真を、テーブルにばらばらに放り投げた。僕はびっくりして何が起きたのか分からなかった。
散乱した写真を拾い集めながら、僕は必死に考え、何か失礼なことをしたのかなと思った。
答えは、態度が悪かったのかなと。緊張とプライドの結果だが、
、殊勝によろしくお願いしますと、頭を下げてもう一度彼の前に写真を置いた。
三木淳はご機嫌になった。
写真を全部見た後、タイトルは「Day by Day」だなと言った。
僕は「Day by Day ~特別な毎日~」をタイトルにした。
12月3日から7日までの、写真展会期中2度も来てくれた。
その後10年間ぐらいの間に、ニコンサロンやポラロイドギャラリーなどでたて続けに写真展を開催する。
ただ結局、僕のなかで表現のジャンルが増えただけだった。仕事は、広告やエディトリアルばかりか、さらに広がっていった。
1994年、小説家矢作俊彦が「ベトナムに行こう」と言った。
ベトナムは、僕の世代にとって特別な国だ。
60年代から70年代にかけて、世界的に反戦運動が活発になる、
スローガンは、「ベトナム反戦」だ。
ベトナムと言う国の名前を何度叫んだろうか。
ただ実際は、ベトナムの何も知らなかった。
はじめてベトナムを訪れて、憑かれたようにのめり込んだ。
写真家になり、初めてひとつのことに執着した。
その一番の理由が、サイゴンの昼下がりのアオザイの女性を偶然とったことだ。
彼女はいったい誰だろう。
翌1995年正月ががあけた17日、阪神大震災が起きた。僕は矢作俊彦と、僕のアシスタントと3人で、京都までしか通じていない、高速道路を一路神戸に向かった。(NAVIという雑誌で月一の連載を一緒にしていた)それをキャンセルして急遽神戸に行くことのにした)
日本写真家協会(その後馘)から、PRESSのステッカーと腕章をもらい、取材のスポンサーは週刊ポストだった。矢作俊彦が売り込んだ。結果はモノクロ10P紹介された。
東急ハンズで、マウンテンバイク3台を買い、ジープチェロキーの屋根に載せ、週末の夜一路、神戸まで走った。予定では途中クルマ乗り捨て、マウンテンバイクで神戸に入るつもりだった。ところがなぜか、ヘルメットをかぶった僕たちのいでたちがあまりにフル装備だったので、検問はどこもフリーパスだった。
そして朝、6時、倒壊した高速道路の下まで来た。僕は三脚をたて、4x5のリンホフテヒニカに超ワイドの65mmスーパーアンギュロンf8で撮影した。・・・・・。
脱線してしまった。話をもとに戻す。
1995年の春、僕のアオザイの写真を表紙に使いたいと、ノンフィクションの作家、神田憲行が言った。
僕は僕の作品集の表紙に使うつもりだったので断った。
そのかわりペントハウス(ぶんか社)で、ベトナムの特集(エロではなく旅行ページ)を10ページぐらいあると聞きつけ、僕は猛烈にアタックして、そのページを全部することになった。
前年行けなかった、メコンデルタの中心の街カント―まで、フェリーを3回のりついで行った。
実は、前年の日本語通訳が全く役にたたない、元公安でプライドだけたかく、観光案内しかできない最悪のコーディネーターだったので、ベトナムで日本語教師をしていた神田さんに、教え子である優秀な日本語通訳を紹介してもらうことになっていた。
ところが来てみる、彼は超売れっ子で、最初の2日間、カントー行きしかつきあってくれないことになった。
そこで、ピンチヒッターとしてやってきたのが、後に僕と親友となる、ド・クォック・チュン(杜国忠)、チュンさんだった。色黒、痩せて、眼光鋭く、北出身者で話し方も高圧的、みるからに絵にかいたような怖いベトコンだった。ただその時、きちんとスーツ三つ揃えを気て(熱いのに)、いやホテルのロビーはキンキンに冷えていて、彼はニコンを肩にかけ、第一印象はさいあくだったが、知性があり、なにより写真が大好きだった。
父親は北の厚生省の役人、軍医、母親は看護師、いってみれば北のエリートのボンボンだったのだ。
ベトナム戦争中はクアンチの戦いで部隊が全滅の生き残り、その後、工作員として南ベトナムに潜入、終戦はサイゴンだったという。
戦後は公安で働いた後、それまで中国語は勉強していたが、中国と関係が悪くない、日本語1995年は、サイゴンツーリストをやめフリーになっていた。
彼は、なにより知性があり、公安だったことで、地方に行ったときには、友達に連絡して、いろいろ便宜を図ってくれた。なんといっても、ベトナムは社会主義の国だ。報道、などは特別厳しかった。
アオザイの写真とチュンさんと出会うことで僕は、完全にベトナムにはまり込んでゆく。ひとつのことに集中して深堀することは、プロになって初めてのことだった。そんな彼に、アオザイの写真をみせると、最初はかれはこれがアオザイだとはがんと認めなかった。ベトナム人じゃないとも。服の着方がおかしいというのだ。そんな彼も何回も会ううち、この写真をアオザイと認めた。でもだれだかは分からずじまいだ。
僕は、ベトナムに行く旅、歌手や、有名人、モデル、俳優、美人コンテストの優勝者など、かぞえきれないベトナム女性に聞いたが、だれも知らないという。
2003年に、NHK総合とBSの「地球に乾杯」と「地球に好奇心」という番組でアオザイをテーマに僕が出演して番組を作ったが、その時も会う人会う人に写真を見せたが、やはり分からなかった。
ファッションセンスと、着こなしと、完璧な歩き方。
しなやかさからダンサーか?
最終的な結論として、ベト僑(べトQ)じゃないかと。海外で育ったベトナム人女性。
この写真を、2002年、ANAベトナムホーチミン直行便就航の時に、使用した。もしかしたら、これは私ですと名乗りでてくるかもしれないと期待したが、いまでもわからずじまいだ。僕はこの女性が誰なのかという問いのいフィクションとして「熱を食む裸の果実」(講談社)という小説まで書いてしまった。
再び、話を最初に戻そう。
1999年1月「サイゴンの昼下がり」を新潮社から出版した。
その時、リチャード・ウイーラン沢木耕太郎訳の「キャパ、その死」に書いてある、キャパの日本滞在と、インドシナ取材を参考に、キャパ最期の場所を尋ねることにした。
そして大学時代のひとつ先輩、同じサークルの一ノ瀬泰造が同じインドシナのカンボジアで行方不明になり無名のまま死んでいる。
沢木耕太郎の訳本を参考に、キャパの死の土地で、もしかしたら慰霊碑でもたっているのではないかと思い、花でも手向けようと、キャパの伝記だけを持って気楽なつもりで、ナムディンのホテルから、船着き場に立ちタイビン方向を眺めながらフェリーに乗った。
1999年新潮社から出版する予定だった「サイゴンの昼下がり」の最後の文章を書くため、
同じインドシナで亡くなった超有名人として、まるで実況されたかのように、その死の場所や日時が克明に記録されたロバート・キャパと、
人知れず、無名のまま死んだ一ノ瀬泰造のコントラストを書こうと、思っていた。
ところがタイビンの土地に立つてと、伝記の記述は矛盾だらけだった。いや、場所の名前がまったくだれも知らなかったからだ。
続く ちょっとお待ちを!
安良夫 横木 - オリジナルプリント販売 Original prints for sale (myportfolio.com)
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