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GIRLS IN MOTION INTORODUCTION 1991-2011
少女たちには、皆名前がある。
この少女たちの多くは、その名前を僕は知っている。
なかにはインタビューして人生を根掘り葉掘り聞いた少女もいる。
当然のように彼女たちにもそれぞれの人生があり、 単純に幸福な人間なんていないといった、
当たり前のことを知ることになる。
街でスナップした少女たちにだって名前はある。でも僕は彼女たちの名前を知らない。
彼女たちは撮られていることさえ気づいていないだろう。
そんな彼女たちにも、家に帰れば親がいて、 もしくは恋人がいたりとやはり悩みを抱えている。
でも、そんなことは写真には写っていない。写っているのは、 意識的にせよ偶然にせよ、
時間と空間が交わるその場所で、
僕がその時、その場所で掠め撮った表面的な記録だけだとういうことだ。
Girls in Motion
は、当時カルチャー誌としてもとんがっていたクルマ雑誌NAVIで1999年から2年間連載、普通の女子のインタビューをしたものです。
タイトルは、当時の編集長の小川フミオさんがつけてくれました。
カラー4ページ。無名の女子を、メジャー誌という公器で4ページやる意味は。タレントだったら最高の舞台。
そのページに、風景の中のGIRLと、GIRL本人にフォーカスしたポートレイトそして2000文字ぐらいの長いインタビュー記事。
当時、ブルセラ世代が大人になり、彼女たちが何を考えていたのか、知りたくて始めたというわけだ。
タレントなら、昼何を食べ、夜どこで遊んでいるか職業上僕は想像がつく。それぐらいタレントは神秘的じゃなくなっていた。
だから普通の女子のほうが、よっぽど神秘的だった。
ちょうど“レイブ”が流行っていた。
レイブって何?と、誘われて数度行った。
NAVI誌がなくなり、その後今はなきSOFTBANKのカメラ雑誌「デジタルカメラ」に連載した。
僕はグラビア誌とファッション誌の撮り方を意識的に変えていた。
1975年デビューは、グラビア誌だった。ただその頃、女性を撮るカメラマンは女性が好きな男が撮っていた。自然の流れだ。僕の周りに、女性にたいしてシャイな男は一人もいなかったと思う。
オタクぽい人間は、絶対に女性を撮るカメラマンにはならなかった時代だ。だからそのころは、欲情するカメラマンはごくごく普通だった。
それがある時から潮目が変わった。
グラビア雑誌界が繁栄すると、その読者たちの存在がはっきりしてきた。それは僕の想定していなかったことだった。
女が好きな連中が読者ではなく、女と口を聞けない男たちが、グラビアの愛読者だったのだ。アイドルやアニメのファンと合致した。ほとんど「オタク」と重なっている。
そこのギャップを軽く乗り越えられと成功した。
需要と供給は科学だ。科学として写真を撮る。
読者が喜ぶように撮る。
ビジネスとして当然の戦略だ。いや、いや、僕は困ってしまった。いくら思い出しても女性に口を聞けないなんて人生を送ってこなかった。
高校が男子校だったので、物理的に女子がいないことはあった。
しかし、いれば話はできる。
だから、グラビアのそんな読者は、
皆目、見当もつかない。
ので、読者のことを考えるのをやめた。
その上、グラビアのそのもったりとした撮り方が、気に入らなかった。女の惚けた顔が好きじゃなかった。
そこで僕は、若いカメラマンの需要があったファッション写真を撮ることにした。先日亡くなった森英恵や三宅一生、そして高田賢三。山本寛斎。ぞくぞくと日本のデザイナーが世界で活躍していた。
ちょうとオートクチュールから新しい、プレタポルテ(既成服)転換期だった。ファッション写真は、モード写真、洋服の写真では収まらず、最先端の表現になった。ヨーロッパのカメラマンたちの写真が毎月のように、日本でも見る事ができた。僕の周りは、皆ファッションカメラマンを目指していた。
流行の写真に迎合できるのが、若いカメラマンだ。僕はファション写真の作品もなかったが、ファッション誌に売り込みに行った。
どの編集者にも決まって言われるのは、外人を撮った写真はないのか?
他のファッション誌でやった写真はないのか?・・・そこでわかったことは、ファッションエディターって、写真のことは何も知らないのじゃないか。
そして初めて認められたのが、
一番topの流行通信だった。編集の林さんが、人間も服もちゃんと写っているとのことで、翌月号から6ページやることになった。
ファッション誌をすると、広告がやってくる。ファッション広告も多いが、タレントの広告も増えた。タレントの撮り方は、グラビア的である必要はなかった。ファッション誌的な撮り方でokだ。
ファッション誌をやっていて、欲求不満が膨らんだ。その頃ほとんど、モデルは外国人だった。それも中性的なモデルが多かった。モデルはモデルだった。
そして再び、女性写真に戻ってくる。変なポジションにいた。
WIHTのような、年齢の高い女性の雑誌も増えた。大女優もたくさん撮った。
僕は、居場所がなかった。グラビアでも、ファッションでも、広告でも、NUDEでもドキュメンタリーでもなかった。だからなんでもやった。
1994年に初めてベトナムに行った。そこで初めて一つのテーマを撮ることになる。自然なことだ。何しろ1994年から20回以上ベトナムに通った。
ベトナムで相変わらず、女性をたくさん撮った。有名歌手。有名女優。
有名モデル。
最初に行った1994年、街角でアオザイの女性を偶然スナップした。
後姿。200㎜望遠2.8開放。ベルビア、+2増感。
その女性に会いたくなった。翌年は週刊文集で、ベトナム美女図鑑として2週間滞在した。そこで多くの女優や歌手モデルに会った。僕の写真を見て、誰も知らないと答えた。
女性は、ただのあこがれじゃない。一度しか会うことのなかった、後姿を女性を、まだ心んどこかで探している。
女性の写真とは、そういうものかもしれない。
表紙の写真は、女優の片山瞳だ。初めて会った日の夜。
この後、何度も撮ることになるが、この時は、GIRLS IN MOTIONを意識したいた。
そう。僕の撮る写真は、すべてGIRLS IN MOTIONだ。
これから、まとめる多分300~400ページになるGIRLS IN MOTIONの
INTORODUCTIONとして、どうぞご覧ください。 横木安良夫
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