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2004年自死した小説家 鷺沢萠 。1989年 週刊文春 フィルム時代の撮影データノート解説  1989.11.21 横木安良夫

フォルム時代、データノートはとても大切だった。これはただの撮影記録ではない。撮影のライティングや露出など、アシスタントが必ず書くものだ。一番の目的は、カラーポジフィルムの現像をラボに指示するために絶対に必要だからだ。ポジフィルムは、露出のラチチュードが狭く、また現像で増減感ができるので、何本かテストをだして、よければ本番の指示をだす。ここではポラ(実際はフジのFP100)で、テスト撮りをしている。ポラは写真の全体像を見るためでもあるが、一番の目的は正確な露出を知るためである
テスト現像で、よく本番の何コマかを「切り現」をするカメラマンもいるようだが僕はしない。そのかわりポラロイド(フォトラマ)とフィルムの関係を、比較しながら知ることだ。色調やコントラストなど違う。ポラをよく見ながら、現像で増減感をする。そのため切現ではなく、1本丸ごとをテスト現像でだす。ほとんどの場合は指示通りでOKになるように、ポラから露出を解読する。

データノート

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基本的に撮影の順番どおりに記録するので、僕が記憶と違っていることもある。鷺沢萠の追悼文は、最初にスタジオで撮ったように書いたが、データノートを見ると最初に神保町で撮っている。僕とアシスタントは神田で集合したが、鷺沢とヘアメイクと着付けは、文芸春秋の隔離部屋で準備したようだ。そう思うと、撮影後着替えに戻ったとき、走ってその部屋上がり、ぞうりを吹っ飛ばして上がったのは、その場所は朝着た場所だったので、早く着物を脱ぎたかったのかもしれない。ここでは、12本撮っている。露出は30分の1秒f2.8とあるので、ハッセルブラッドに三脚を使っている。レンズは書いてないが80mm標準だ。
現像の指示は、ポラロイドを見ながらする。ポラでこのぐらいの明るさだと
プラス2分の1とか3分の2とか。まず数本をテストして、ポジを見なが残りを指示する。35㎜の場合は、テストしない時代が長かった。というのも、増減感できないコダクローム64を使っていたからだ。

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神田のあと、たぶんどこかで昼食をとっている。なぜならスタジオは2時から予約しているからだ。ここではストロボ1灯撮影だ。僕は昔から1灯撮影が多かった。1灯撮影では、ライトを正面か、左か、右かを選ぶ。たいていは正面か左からだけれど、人によっては、向き不向きがあるので、顔を見ながらどちらにするか決める。写真を見ると、右左に移動しているので、アシスタントがストロボ手持ちしていると思う。ストロボはかなり至近距離から当てているので、コントラストが高く、発色がよくなり、メリハリがある。ただメリハリがあると、肌の質感がですぎるので、シルクのシーム入りのごく薄いストッキングを紗として使っている。これは僕の先生からの直伝だ。
デジタル時代は、いくらでもレタッチできるが、フィルム時代は、広告の場合などデジタルと同じぐらい修正が効くが、雑誌はほぼストレートにでてしまう。なのでポジの段階でかなりシビアに肌の描写もコントロールしなければならない。ここでは背景もなりゆき。
ポラ(FP100)の色がグリーンがかっているのは30年前のなので変色しているからだ。FP100は、かなりフィルムの色と近くなり、このころになると安心して使っている。それ以前のポラロイド時代は、カラーポラのType108?は、色がポジと全然違うので使えなかった。なぜなら、デザイナーと組んだ時、カラーポラを見て、「え、この色いいね」とかいう始末。「いやいや、本番の色は全然違います」というと「でもこれきれいだね」とかいうので、その辺が面倒なため、ポラはモノクロの107を使っていた。107は、感度がISO3000もあり、NDフィルターをポラパックの中に仕込み、感度をISO50まで下げた。一番の利点は、現像が速く、20秒ぐらいで見れたし、感度が正確だった。
フジのFP100になって本当に助かった。でも30年以上たつとこんなふうにグリーンになってしまうんだね。これはこれできれいだけれど。

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スタジオで全身もとっていた。どこかにあると思うので探そう。
左下の横長のポラは、35㎜用のポラだ。
ほぼ手札版のフィルムに35㎜原寸の像を結ぶ。
35㎜用のポラパックが出る前は、ポラだけ中判を使ったりしていた。
カメラによって、露出は微妙に変わるので、その辺は換算して使っていた。
35㎜用のポラは、たしかCanonEOS1につけていた。この年に発売されたEOS1はすぐに購入した。一緒にEF50mm1.2も。ところがEOS1の初期型は、測距点が中心の1つ。すると1.2の開放で人物を撮るとコサイン誤差でピントが微妙にずれる。すぐに汎用機がでたらそれは、測距点が3つ。
そちらのほうが、ピントが来るので、新品のEOS1は、裏蓋を外し、ポラパック専用カメラになってしまった。きっとそのあたりから、僕は一番のフラッグシップ機嫌いになったのかもしれない。フィルム時代の35㎜メイン機は、デジタルになるまでずっとEOS5だった。
使用フィルムとみると、RFP、RDPとある。もう30年も前のこと、このフィルムがなんだったのか忘れた。そして記憶違いもあった。
というのは、僕はずっとコダックのフィルム、主にエクタクロームプロフェッションと35㎜は、コダクロームを使っていた。

フジを使い始めたのは、ベルビア、プロビアからだと思っていたいたら、データノートを見ると、RDP、 RFPとある。なんだこのフィルム。コダックじゃない。フジではないか。いつから使いだしたのだろう。
フジフィルムとのかかわりは、
それが1983年、フジの新しいフィルムが発売され、その時コラボイベントとして角川と組んだ広告からだ。これは4x5で撮っている。
広告の場合、フィルムは基本全部渡してしまうことが多い。使用分を返してもらうには、それなりに要求しなければならない。返してもらえないことが多い。まあ、それは契約なので、だからギャラが高いと言える。一日数十万は常識として、100万を超えることも多々あった。

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上のサイトでの僕の記憶違いは、そのとき、確かに素晴らしいフィルムだったけれど、実用性は、増減感ができないので、以後、使わなかった。と。
ところが1989年の時点ではフジのフィルムを使っている。うーん思い出せない。謎だ。
35㎜はずっとコダクロームを使っていた。ベルビア、プロビアがでてからは35㎜もフジのフィルムを使ったということだろう。


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