写真家 達川清が亡くなった。
達川清は、友達ではない。最初に知ったのは、大学3年か、4年、ファッション誌流行通信の前身にあたるモノクロの“流行通信”。学生の分際で、日芸の達川清と細谷秀樹がすでに活躍していた。てっきり一つ上の先輩だと思っていた。猛烈に嫉妬した。写真自体は覚えていない。
僕は、1972年カメラ毎日「アルバム」に採用されたが、その時はすでに、篠山紀信さんのアシスタントになっていた。修行時代だ。そんな時、細谷秀樹と達川清は、ファッションカメラマンとして特に活躍が目立っていた。
まだあの時代、グラビアよりファッション写真にパワーがあった。グラビア写真は篠山紀信の独断専売のようなものだったからだ。若いカメラマンの多くは、ファッション写真を目指していた。
僕は75年に独立してフリーとなった。篠山さんのところにいた3年8ケ月で、僕の写真観は解体した。当初は2年でフリーになるつもりだった。オイルショックや、セカンドアシスタントだった宮口君が外国人と結婚していたのだが、子供ができて、主夫業に専念することになり、アシスタントを急遽やめ、僕は1年フリーになるのが伸びた。26歳、まわりはどんどんプロになり活躍しているので、あせりがあった。
やめてすぐにいくつかの仕事があった。
ただ、それまでのまるでタレントのような猛烈なスケジュールで4年近く働いていたので、いっぺんにひまとなり、篠山さんのやり方は僕には通用しないことが分かった。
売り込みはまだしていなかった。
持っている作品は、スナップ写真は、売り込みに行くような写真はなかった。
写真はプロフェッショナル時代で、スナップ写真、人物もたくさん写っていたが、そういう写真は仕事用ではなかった。褒めてくれる編集者もいたが、たいていは、これまでの仕事の写真を求められた。フリーになったばかりのカメラマンに仕事の写真を見せろとは、頭がおかしいと思った。
コマーシャルフォトで日本のファッションカメラマンの大特集号が発売された。
同世代のカメラマンも、皆載っていた。沢渡さんのアシスタント(篠山さんと沢渡さんは六本木スタジオの上の同じ3階にあり、暗室と助手部屋は共有だった)の僕よりもひとつ若い杉原拓広が先にフリーになり特別号に掲載されていた。僕は猛烈に嫉妬した。
アシスタント時代、篠山さんはファッション写真は数回しか撮っていない。三宅一生さんのカタログやananの玉三郎。後は独自に開発した、爆発寸前のグラビア男性誌がほぼすべてだ。広告も年数回。タイメックスという時計の広告では、撮影篠山紀信と名前入りだった。
仕事量は膨大で、そこに僕が新たに割り込む気持ちにはなれなかったし、パワーが違いすぎた。
僕は篠山さんから一番離れたところでやろうと思った。時代は、オートクチュールから、プレタポルテが主流になり、ファッション業界は、パリを中心に、日本でもパワフルに育ってきた。多くの日本ジデザイナーが活躍始めた。ファッション=広告写真 といった時代だった。広告をするにはファッション雑誌をやる必要があった。そんな時代、細谷秀樹と達川清は若いスターだった。80年代に、代官山パシフィックマンションに事務所を立ち上げたとき、細谷秀樹がいた。年齢は一つ上、しかもカメラマンとしてのキャリヤは、5年以上先輩だ。僕はエレベータで会うたび、挨拶をした。短い会話。学生時代からプロになった彼は、露出は自分で図るとアシスタントが言った。
80年代後半、僕は懐中電灯を使ったTwilightTwistという特殊な撮影方法を考え出した。アートではなく、手法、ライティングのひとつとしてだ。それでファッション写真を多く撮った。
そんな時、僕の大学時代の同級生であり写真の先生、日本デザインセンターのメインカメラマン高木松寿が、達川清の名前をだした。その頃になると達川はファッションというよりアーティストになっていた。高木も達川らと一緒に写真展を開催している。僕のTwiligtTwistはペンライトを使った長時間露光だ。達川も同じように長時間露光で撮影をしていると高木が教えてくれた。高木も、そのころ写真展などを積極的に参加していたころだ。
その手法を聞いて僕は驚愕した。
それは、海岸に転がる岩を、金づちでたたき、その火花で写真を撮ると言った、超狂った撮影だ。高木君に聞いただけど、僕はその姿を妄想した。大きな岩なら何度叩くのだろうか?同じ長時間露光でも、僕はせいぜい長くても数分。達川の異常さに僕は、再び嫉妬した。
70年代か80年代に僕は達川清とどこかで会っているはずだ。先輩でもあり、学生時代からその名前は焼き付いていたので、僕が緊張していたからか、彼の気分の問題だったか、挨拶も、ギャラリーかどこかで会った時、話すこともなかった。
僕は、いまでこそ、年上が少なくなったので、問題ないが、若いころは、年上の編集者や、カメラマン、仕事上のいろいろな人とぶつかった。アートディレクターにも、あまりかわいがられなかった。口の利き方が悪いのか、年上とは、篠山さんや、横尾さんのような、年齢にかかわらず会話してくれる人間以外は不得意だった。女性は年上も全然だいじょうぶなのに。
達川清もずっと先輩だと思っていたので、僕が距離を作ってたのかもしれない。
それが、スタイリスト中村ノンが、原宿の写真集とイベントをしたときに、面と達川清と向かい会った。かつてのぼくの勝手なイメージと全然違う、オープンマインドの優しい男がいた。ひとなつっこい。
ただ学生時代のことを話していて、特に学園紛争の話で食い違う。
実や、細谷秀樹と達川は同じ年齢、ところが日芸では二人とも学年がひとつ下という、ネジれた関係だったの。学園紛争時、僕は2年生、彼らは1年生。
かれらが学生時代から、プロとして流行通信をやっていて、
てっきり先輩だと思っていた。だから僕は「達川さん」「細谷さん」呼んでいた。
達川さんは、その出会い以降の付き合いだからいいとして、細谷秀樹は同じマンションに事務所があったので、いつも先輩としてあいさつしていた。
それから達川さんは、ときおり写真展にきてくれた。
友達ではなかったけれど、きっと僕が、写真界の先輩として意識しすぎていたのだと思う。
それほど「タツカワキヨシ」と言う名前は僕の中では、強い意識する写真家だった。
実際は、いつもおしゃれで、明るく正直だった。
11月ごろ入院するFacebook見た。
もう何度目だろうか?
同じ世代がなくなるのは、複雑だ。
僕もあと何年いきるのだろうか。
合掌
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