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vol.02 1985年12月 ニコンサロンで写真展を開催した。自分の写真が何か求めていた。

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1985年12月3日~7日 横木安良夫写真展 THE DAY BY DAY ニコンサロン新宿京王プラザ内

RCペーパー全盛期、かつての紙の印画紙が激減した。
するとイルフォードやFUJI
FUJIから本格的なバライタ紙が各社がから発売された。写真展をする意欲がわいた。

1985年 仕事は順調だった
20代後半から、30代になると同世代のアートディレクターが増えたこともある。広告の仕事が増え、エディトリアルは少し減った。
ファッション雑誌に疑問があったからだ。当時、ファッション誌では外国人モデルが主流だった。僕はもともと人間を撮ることがメインのカメラマンだ。
毎日、毎日、外国人モデルを撮ることに辟易としていた。そういう意味ではタレント、歌手、女優を撮る仕事がたのしかった。
女性誌の仕事も増えていた。
日本人をクールに撮りたいと思っていた。文化出版の「装苑」は、日本のモデルを使っていたが、アイドルチックな、日常的な女の子扱いだった。日本人をクールに撮ってみたいと思っていた。

僕の下の世代のカメラマンは、ファッション写真でもだいぶ日本人を使うようになりつつあった。僕は最初に、山口小夜子のような世界的にクールなモデルを撮ってしまったからだろうか、その頃のファッションのモデルの使い方になじめなかった。モデルはマヌカン、人形だった。
僕はファッションだとしても、生身の女が撮りたかった。
正直、どのジャンルもしっくりこなかった。
LPのジャケット撮影は楽しかった。ギャラは安かったが、メディアとしては魅力的だった。
やりたいことを求めて、
いろいろジャンルを広げていったせいか、混乱していた。
何より、一番かけていたのは、自分で主体的に動かなかったことだろう。
時代波に乗って、10年間、たくさんの仕事をしたが
結局、流されていたのだ。
はたから見れば絶好調に見えたかもしれないが、悩んでいた。
写真家として自分がない。プロとして、職人として徹することができなかった。
特につい師匠と比べてしまう。そのパワーとボリュームと、企画力、実行力に、次元の違いを感じた。彼にとって仕事と作品の境目がなかった。
自分で商業カメラマンだといいながら、全部方向性のむだのない動きだった。
そんなことできるのは、彼自身がディレクターでもあり、プロデューサーでもあるからだ。そんなこと真似できるわけもない。

1985年新宿京王プラザホテルの一階ロビーフロアにあった、ニコンサロンで初写真展を開催した。仕事ではないプライベートのモノクロ写真だ。
原点に返ったつもりだった。
仕事ではなく、アシスタントになる前から撮っていたスナップショットだ。
そこにヒントがあるかもしれない。
写真展といえば、ニコンサロンしか思いつかなかった。

ニコンの人に相談したら、審査というか、会長写真家三木淳氏に、丸の内のビルのひろびろとした会長室に呼び出された。ソファー、そして広く低いテーブル、そこに僕は挨拶しながら三木氏の前に僕の束ねた作品を置いた。
すると三木淳は立ち上がり突然怒り出した。
「なんだ君は」・・・写真を見せる態度じゃないというのだ。そして僕の写真の束をつかみ、テーブルに放り投げた。僕はびっくりして何が起きたのか分からなかった。
ばらばらに散乱した写真を拾い集めながら、僕は必死に考え、何か失礼なことをしたのかなと思った。
何か、態度が悪かったのかな。それは緊張とプライドの結果だ。
写真をかき集め、殊勝によろしくお願いしますと、頭を下げてもう一度三木淳の前に写真を置いた。
突然、三木淳はご機嫌になった。

写真を全部見た後、タイトルは「Day by Day」だなと言った。
僕は「Day by Day ~特別な毎日~」をタイトルにした。
12月3日から7日までの、写真展会期中2度も来てくれた。
その後10年間ぐらいの間に、ニコンサロンやポラロイドギャラリーなどでたて続けに写真展を開催する。
ただ結局、僕のなかで表現のジャンルが増えただけだった。仕事は、広告やエディトリアルばかりか、さらに広がっていった。
翌年もニコンサロンで写真展を開催した。タイトルは「American Heads」
マツダの広告のために、10日間ぐらいカリフォルニアをロケハンした。毎日朝から晩まで、車で走り回った。その仕事のあと、見たばかりのヴィムベンダーズの映画「パリテキサス」にでてくるヒューストンと言う人気のない都会に行ってみたいと思った。再婚したばかりのワイフとサンフランシスコで待ち合わせた。彼女の友人カップルとヒューストンで落ち合った。ベトナムレストランに行った。僕はその数年前にハワイの、ウォンキーという中華レストランで口にした、パクチーのため、三つ葉さえ食べられなくてなっていた。野菜は何でも食べられるのに、パクチーは吐き出し、口のなかにそのエグ味がのこってしまった。ヒューストンのベトナムレストランにフレッシュなパクチーのサラダがあり、皆にだまされたと思って挑戦した。あれだけ拒否していたパクチーとは。それ以降パクチーは大好きなる。

その3に続く   

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このマガジンは、 ノンフィクション「ロバート・キャパ最期の日」の本文と本には載せられなかった写真など、きめ細かく紹介してゆきます。

戦争写真家ロバート・キャパは、1954年5月25日、午後3時ごろベトナム北部、紅河デルタの町タイビン郊外のタンネという場所で地雷を踏んで死…

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