改札機が閉ざした向こうにいこう

帰る時間がちょっと遅くなっても、運賃が割高になってもこの人と一緒に居たい、と思う時がある。この現象を自分の中に認めた時、温かい感情の柔らかさにゾッとする。つまり温かい感情の無防備さも呪詛性の高さも、全部が自分から生まれる「純粋」すぎる生成物かつ反応だから、ゾッとする。でも、ゾッとしてもいいかと思える相手がいる。それは生きる上で幸せなことなんだなと思う。

こんなことを感じさせるのは、まずもってワンウィークの二人である。ワンウィークとは、早稲田大学お笑い工房LUDO23期に在籍する、畑中結名と越智薫子で構成された新進気鋭コンビである。まことしやかにその気鋭っぷりが話題を呼び、最近は早稲田の広報誌にも取材されていた。名実ともにグングンきているコンビである。あんまり彼女らはその辺のことを教えてくれないので推測で語っているが、多分そうだろう。

なにより、ワンウィークの二人と私の関係は、端的に言えばズッ友といえよう。振り返ってみれば畑中とは中1から、越智(以降おーちゃんと呼ぶ)とは小5からずっと友達だ。
畑中の第一印象は、「気味の悪い人」だった。おそらくは、彼女が人見知りを拗らせていた表象なのだろうが、メチャクチャ挙動不審だった。アイスブレイクの校内ピクニックみたいなので突然話しかけられた時は、おぼつかなさに恐怖心を覚えた。その中で帰り道が一緒だと発覚し、一緒に帰ろ!と言われた時は、面倒なことになったと絶望したのを覚えている。しかし、気がつけばとんでもなく仲良くなり、騎馬体操部やゴム飛ばし大会などの遊びをたくさん創造してきた仲になる。省略するが、キングカズ事変から、私の中で心の距離が縮まった記憶がある。いくらでもエピソードは尽きない。

高3、秋

そしておーちゃんとは、実は幼稚園から一緒のため、3歳から顔見知りである。我々は幼稚園から高校までの一貫校に通う、ハイパーエスカレーター式の進学をしてきた。ただ、話すようになったのは前述した通り、クラスが同じになった小学5年生の時である。二人とも「自分は他の人とちょっと違うんじゃないか」と心の底では信じ込んでいた児童だったため意気投合した。お互いお笑いが好きで、2ちゃんねるが好きで哲学っぽいことが好きだった。本当にイキってるかつキショい小5だった。

高2の時のおーちゃん、パックマンに似てると言っても誰にも理解されなかった

またおーちゃんとは、自主勉強のために小学校に居残る、意識の高い勉強仲間でもあった。その帰り道、夕焼けにエモくなったり、ホームにある駅名が書かれた看板をくぐる遊びをしたり、あまりに美しい時間を共有している。私たちはその美しさを、今でも言葉に尽くせないものとして扱っている。そして深川江戸資料館に遊びに行って、その時ハンバーグを食べたなとか、藤子・F・不二雄ミュージアムでドラえもんの飲料を飲んだこともあるなとか、思い出が莫大にある友人だ。中学の頭らへんはなぜか喧嘩をし続けてる時期があり、それでいて一緒に帰ることはやめない、可愛らしい諍いをつづけていたこともある。ただ美しい記憶がそこにある。

そして我々3人は、中学一年の登下校仲間として出会い、あらゆる遊びをしていたら卒業し、今に至るわけだ。この3人の思い出も、言わずもがな、濃密である。ほんの一例を出すとすれば、ラジオをとりながら下校したことや修学旅行を「映像合宿」として三日三晩、あらゆる映像制作品をつくったことが真っ先に浮かぶ。

映像合宿こと高2修学旅行、のちのワンウィークが映る写真

初めて録ったラジオは、魂のラジオから着想を得た「塊(かたまり)のラジオ」である。これも中3の修学旅行の時におーちゃんと二人で始めたことだ。また、おーちゃんとは中学ごろから映像制作仲間になった。二人とも悪ふざけを収めた映像をより面白くするために、映像編集に手を出したのである。人生で初めて制作した「shigeru vaporwave」という怪作は、私の美術の原点である。当時はただ楽しくて、作りまくっていた。悪ふざけから奇しくも、私もワンウィークも何かを表現しようとしていて、お互いに人生を弛ませたあっているなと感じる。そしてそれは、また幸せなことだと思う。
時は飛んで私の浪人が決定していた頃、本来なら二次試験を受験してる頃に一緒に江ノ島水族館に行ってくれて、楽しいことだけしてくれた優しさは一生忘れるまい。マジで最高のダチと表現する以外、どう表そうか。


さて、本題はここからだ。今日ははじめてワンウィークのネタを見に来たのだ。それも、「全日本アマチュア芸人NO.1決定戦2023」と題されたイベントに出場する彼女らを見に来たのだ。

エモーショナルに突き動かされて、わざわざアプリを捨てていたnoteを入れた。今思っていることを残したい。特別な時間を過ごしたと思うからだ。それくらい、超絶ハイパーメチャクチャ面白かった。同時に、自分は誰よりも彼女らのファンであり、誰よりもワンウィークのネタで笑ってしまうのだと気づいた。友達が何かしている面白さ、を遥かに超える、ただの私のツボが繰り広げられていたわけである。
色々感じたことはあるが、まずは「達筆」を面白いと思っているんだなと思った。もっと抽象化すれば、「精神世界に入っている人を見つめること」が好きなんだなと思った。パッと聞くと超性格が悪い趣向だと思うが、そこにはリスペクトが多めに入っているから笑える。この塩梅はとても大事だと思う。もはや常人では理解不能の域にいった人たちの孤独に寄り添い、そこに面白さを見出すというのは、もはや美的な営為である。蛇足的だが、中学の時に備品委員に畑中と入っていた時も、達筆すぎて読めない書記の人に反応していたなと感慨深くもなった。そして、そういう「ズレ」とされているものを笑いに替えるにあたり、自分たちのクラフト感を大切にしているところに私は1番心奪われる。お手製の髭、モップみたいな素材の筆、絶対盛り上がりながらつくられた賞状など、あのクラフト感はめちゃくちゃ謎の説得力と覇気を出す。手数は、むやみに人に見せるものではないが、そこに現れる魂が伝わる時、鑑賞者は嬉しくなるものだ。私はその姿を見て、励まされてしまった。
そして今、思い出しながら書いているわけだが、あんまり思い出せないところが1番最高である。楽しすぎるだけだ。しかし楽しすぎるは突き詰めると、祭りになる。祭祀性を帯び、楽しいという行為の連続が、次第に「儀式」としての様相を帯びるのである。ワンウィークのあの書道のネタは、もうちょっとだけ、儀式を見てる時の、異様な多幸感を与えるものだった気がする。それは意味を超えた次元にある、感覚に訴えかけるネタなんじゃないか。ヤバすぎる。これをつきつめると、キッチュはあるところまでいけば神聖になるんだなという発見があった。

追記
 ちょっと違うバージョンらしいけど、同じ書道のネタがアップロードされた。これでいつでも思い出せる。


「今日」とは言っているけれど、そのうちに書ききれず、明日になってしまった今書くこの文章でいいたいことは、ワンウィークのふたりがお笑いをしてくれてることが嬉しい、ということだけかもしれない。そうした感情につつまれている。それだけの気持ちである。ただただ、いい日だったから、いい日だったということを残した。そういうことが、私の営みの中に大事なんだと思う。

これは遊び神回のカラオケの日、浪人生のとき

作りつづける人は格好良いし、その結果で人を笑わせているのはもっと格好良い。多分に、元気をもらい励まされ、私も頑張ろうと思った。広い目でみれば同じように何かを表現している、というのもとっても嬉しい。制作は、サングラスをかけてプラネタリウムを見るようなもので、暗闇の中、一つの光を探すことだろう。身近な友人が表現の中で闘い続けていると思うと、ほんとに救われる。
とにかく、二人に言いたいことは「行って来い。」に尽きる。そして「俺たちも行こう!」と思える仲間に会えてよかった。ワンウィーク、最高!

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