オノ・ナツメの「煙」に魅せられて
煙草は時間をくゆらす娯楽だ。
箱から一本取り出し、口に当てて火をつける。軽く吸い込むと煙が浮かぶ。
ぼんやりと立ち上る白い線を眺めながら、味を確かめ、次の一口に手をやって。
ゆっくり吸い込み、スーッと吐き出す。
些細な悩み事や、感情の波がスーッと軽くなる感覚。遅れて喉にやってくる苦味。
ああ、煙草って素晴らしい。
もくもく、ふわふわ、ゆらゆら。
薪が燃えている映像を12時間生放送した、ノルウェーのテレビ番組が視聴率20%を記録したってのも分かるな。立ち上っては消える煙を見ているだけで、最高だ。
馬鹿と煙は高いところが好きだなんて茶化してくれるなよ。
あんなところでキレイな女性も、ほら。
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街の真ん中で、一人の女性が座り、煙草に火をつける。
そこは、空き箱や吸い殻にまみれた汚い灰皿があるわけでも、外界と仕切る柵があるわけでもない。タバコのマークがあしらわれた看板と、一人分の椅子だけが用意された喫煙所。
煙が彼女の口から洩れ、吐息と共に街へ漂う。
すると、その様子を見た通りすがりの人々は一斉に彼女に目を向け、脳内でこう思う。
「ありがとう」と。
にわかには信じられない光景。「臭い」「有害」「迷惑」なんてとんでもない。「ありがとう」だ。そもそも、喫煙所を利用している人がいるというだけでも珍しい。
不思議に思うかい?
いいや、なにも不思議なことじゃない。その世界で、煙草は大変高価な嗜好品なのだ。ひと箱で人ひとりが暮らせるほどに高い税金がかけられた煙草は、今じゃ庶民が手を出せる代物じゃない。喫煙は金持ちにのみに許される娯楽であり、庶民に代わって超高額な税金を払っている証でもある。だから人びとは喫煙者に対し、自然に感謝の心を持つ。
煙草を販売する店も数が限られる。ブティックや宝石店のような高級感あふれる建物。ガラスケースかマガホニー製の棚から恭しく取り出された平らな缶に並ぶのは、ピシッと巻かれた細い品。葉の産地と巻いた職人の説明と共にサンプルを勧める店員の素晴らしいサービスを仲介し、街に煙は漂う・・・
そんな世界に、いずれなるかもしれない。
これは、煙草をテーマにした短編が集められた『シガレットアンソロジー』の二冊目に収録された漫画。オノ・ナツメによる「グッバイ シガレット」で描かれる世界だ。
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オノ・ナツメ作品で僕が最初に惹かれたのは、「煙」と「湯気」の描写だった。
登場人物が咥えた煙草から延びる煙や、コーヒーが注がれたマグから立ち上る湯気。
細い線が繊細さを演出することもあれば、幸せな食卓から溢れる塊を表現することもある。
そして、オノ・ナツメが描く人物や、会話表現すべてに共通する魅力にも、「煙」と「湯気」は通じている。それは“色気”。
イタリアにあるリストランテの物語、男四人のシェアハウス、江戸時代の悪党活劇、アメリカのヤングハードボイルド、絶望メタノンフィクション。描く国も、主人公となる人物年齢も作品毎にガラッと変わるのに、登場人物から漂う色気が物語に引き付ける。セリフは多くなく、線もスッキリしているぶん、表情の変化や姿勢動作に読者が敏感になるからだ。
僕が一番好きな『not simple』という作品もそうだ。寡黙な青年が生き別れた姉を探しに旅する物語なのだけど、登場人物がそれぞれ絶望に直面し、青年もどんどん喋らなくなる。それなのに、彼らがどれほど最悪な気分なのかが伝わってくる力が籠っている。青年の人生を見届ける覚悟を決めた小説家は、その使命を果たし、その結果を僕たちが読むというメタ作品でもあり、僕は一冊で完結する漫画の中でこれ以上の作品に出合ったことがない。
さて。
「グッバイ シガレット」の世界は、他のオノ・ナツメ作品にも繋がっている。アニメ化されたことで話題になった『ACCA 13区監察課』と、現在連載中の『BADON』がそうだ。
高級煙草店に再起を賭けた“元犯罪者”四人組の知的で大胆な人生ゲームはとにかく渋い。検問から抜けるシーンはまるで「オーシャンズ11」。そんな大人が煙草を吸うシーンはもはやエロい!
煙草を吸うってどういう気持ち?
そんなあなたは是非オノ・ナツメ作品を読むといいですよ。