脆さゆえの強さ|次元上昇 #3 with ロビン・カイザー & サンドラ・ヴェーバー 公開日:2023年12月23日
オリジナル動画:https://www.youtube.com/watch?v=N1TVGv9oSaU
和訳:ALAE PHOENICIS
(前説省略)
サンドラ:ロビン、最近の調子、体調なども含めてどうでしょう?話してくれますか?
ロビン:喜んで。身体的にいうと、非常に挑戦的な状況を体験した。繰り返し、無力感に巻き取られてしまい、自分は素っ裸で傷つけられやすく、弱々しい感触を味わったので、この身体的な脆弱さを感じること…肉体が最高の健康状態でなくなり、効率的でなくなり、常に存在しなくなることで、如何に強い意識が生じることになるのだろうか?と自分に対して真剣に問うことになった。僕の経験では、弱さの中で自分を開くこととか、随分多くのことを学ばせてもらった。エゴの意識からすると、弱さや無力さというのは好きじゃない、我慢がならないんだ。エゴは、自分がこれまでの人生で築き上げてきた全てを継続させるために、常に最高の状態で、効率的で美しくあり続けたいと願っているわけで。そして、物理的なものであれ、運命的なものであれ、人生に激震が走ると、しばらくの間は自分自身に引き戻される。外側の生活、機能的な構造、築き上げてきたものすべてが、まずは揺らいでしまう貴重な時なんだ。そしてそれは、移行期に何度も何度も僕たちを待ち受けていることだと僕は思ってるんだけど、僕らがこの世界で機能的に築き上げてきた成果の領域が揺さぶられることで、僕らの意識はより深いところまで行けるんだ。
サンドラ:その通りよね。それは人生のプロセスでもあり、私たちは常に呼び戻され、何度も道を修正する経験をする。もし私たちが金色の大道を通らず、脇道に迷い込んだとしても、このようなことがあれば、もちろんまた外に出ることができる。そこには異なったレベルがあって、そう、私たちはなぜそのような脆さに陥ってしまうのか。でも、あなたが言うように、脆さはしばしばすごくジャッジされる...あるいは、私たち自身がジャッジしてしまう。そう、もしかしたらそこにエゴも入ってきて、誰かが私を妨げているからだとかなんとか、そういうことを言うかもしれない。もちろん、そんなことはどうでもいいわけで。自分の内側に目を向ければ、そこには追求すべきまったく新しい、まったく違う道が常に開けているのよね。そこが素晴らしい贈り物ってこと、でしょう?またひとつ、気づきを得ることが出来た、一歩深められた、という贈り物。
私が「脆さ」という言葉を使うとき、私の脳裏には、至る所に起きている地割れのイメージが浮かぶの。私たちがいま居る世界、今のタイムクウォリティでは、これまで構築していたものはもう、作れなくなっている。私たちはもはや安定した地盤の上に立ってはいない。家庭でも、国でも、経済でも、どこであろうと、生活のどの場面だろうと、地盤に亀裂が入り、溝が開き、火山の噴火や地殻変動などのために、表土にさえも亀裂が入っている。つまり、この“脆さ”はあっても良いということ。
重要なのは私たちにとって何が良いことなのか、であり、私たちは世界的、あるいは銀河的なプロセスに完全にドッキングされている。それは実に明白なことで、私たちはこの“脆さ”を真の贈り物として受け取っていいのだと思う。
ロビン:うん…これは移行期間だからね。そんなカチカチの構造だったら、どうやって変容するのか?ということになる。まずはエネルギー領域にやってくるのは“揺さぶり”だ。これまで僕らが生活を構築してきた地面が振動し、地盤が割れる。わかりやすいイメージだね。それを使わせてもらうけど、僕らには「自分象」というのがある。自分の人生についてのイメージ、自分とは誰で、どのような役割を演じるのか、何十年もかけて人生とはある特定の様相なのだというイメージを創って入れ込んできたんだ。「自分にはこれとこれといった能力があり、自分の身体はこんなので…といった具合に、うーん…自分にできそうなレパートリーを創ってきた。それが揺らいだとき…人生が巡ってきて、自分のアイデンティティを築いてきたこの地盤が引っこ抜かれるとき、僕たちはまず、下落を経験し…「そうか、今はもう手放すしかないんだ」となる。肉体的な脆さを感じ、エゴは壁に押し付けられた感がある。もう手放す他、どう仕様もないんだって状況に追い込まれるのを感じる。足元の基盤が取り払われ、明日と明後日に何が待っているのかわからなくなったとき、意識はそれを受信するためだけに開かれるんだ。
サンドラ:…そうね。そうしたら、 降参しようって気になるのよね。だって大抵、他にもう選択肢は残っていないから。道が見えなくなったとき、精神が道を見いだせなくなったとき、あるいは本当にしがみつくべきものが何もなくなったときに、今度はハートが主導権を握るの。そして、私たちはみんな、そこへ向かおうとしている。これは「ハートの歩む道」「魂の道」なのだから。そして、まだ何かにしがみついている間は、そこに力を委ねられていないわよね。でも、手放した途端に自分でも気づくものだし…もしかすると、人によってはまだしがみついているからこそ、酷く揺さぶられているのかも知れない。そこで「わかった。もう駄目なんだ。それならばこのまま楽に流れに乗ろう」って…つまり、困ったときの神頼みとか、よくある話だけど(笑)、それで、普段は感謝を忘れていたことがちょっと後ろめたくなったり。でも、「きっと今は、これを肯定的な力としてとらえることができますよね?:ねえ、ちゃんと内なる流れに戻り、始まろうとしているものは落ち着いてなすがままに委ね、再びまったく新しい地面に降り立つために始まるかも知れないこの空虚へと落ちていきます」ということ。「神の手の平よりも深く落ちることはない」という素敵な言葉があるけれど、私も過去に、どんなに深く落ちたときであろうと、これを幾度も経験したわ。乗り越えねばならない健康問題や、とても苦しい人間関係で悩んだ時も。私は常に、それで成長を遂げたし、「もう、どうすることも出来ない」となって、手放せた瞬間、かならずゲートが開いたの。
ロビン:人生は、基本、何かを送りつけて僕らを開こうとしているだけなんだ。 僕らは長い間、分離された意識の中に隠れていて、その壁が揺らぐと何が起こるのかから注意をそらすために、できる限りのことをしてきた。
そして結局のところ、僕たちにやってくるすべてのもの、人生が僕らに与えてくれるすべてのものが、個別にされ、閉鎖されてきた意識をまた開かせようとしているんだ。しかし、揺さぶられることもなく 、境界の柵が安全性が試されることもなく、地面がひび割れることもないのなら、何が変わるっていうのだろう?
分離されていた意識が、やっと己を開こうとした時、それを恐ろしく感じることだろう。僕らはすごく安易に、「そうさ、みんなで新しい意識へ突入しよう」とか言うんだ。「愛の意識、無制限の意識を体験するんだ」ってね。
ところが、僕らが今立っている場所からその「新しいもの」というのをみると、主に感じるのは恐ろしさだ。なぜならそこには制御が効かないし、そこにはこれまであった“自分は誰なのか”という自己に関連付けるものもなく、自分はどんな世界で行動することになるのか、その基準が何もない。それらすべては、新しい意識へ移行した途端にすべて奪われてしまう、取り上げられてしまう…そのように感じるだろう。
そして、この無制限の領域、高次のアイデンティティにあることで、僕たちは本当の意味で交信を始めることになるのだ、ということに時と共に気付いていくだろう。
そして…これなんだよ。僕はこれをずいぶん長いこと自問してきた。「僕はなぜ、愛を恐れているんだろう?」って。
「傷を癒やす」コースで、この言葉は繰り返されてきた。僕には最初分からなかったんだ。もっと深めて、分離状態に在る自我の構造(エゴ・ストラクチャー)というものを研究し、体験していくまでは。そりゃそうだよ、分離の意識からすると当然、愛というものは何か広がっていくもの、開いていくものを秘めているので、それは常に脅威なんだ。
サンドラ:それこそ、あなたが最初に言ったことよね…素っ裸で傷つきやすいということ。そこへ全てが繋がっていく。でも、その愛の次元というのは「広い」ところなわけよね?愛には全てがこもっているのだけれど、それでも「愛の次元」というものは愛自体よりももっと広くて、そもそも私たちという存在すべてが愛であり、私たちが感じ取り、見て、体験するすべてが愛なので、結局は愛以外には何も存在していないのだけれど… でもそうなるともう頭が着いてこないのよね。頭は「ちょっとまった」ってストップを掛ける。「それは愛じゃない」っていう例えが出てくる。それは、どの階層からものごとを眺めるかで変わってくるわけ。
とりあえず、私は愛というものの背景と共にある肉体にと留まろうと思うけど… あなたは… 自分を通して起こしたいこと、そうではないこと、それをどうやって区別できると思う?
例え話をすると…今年、あることに気付いたの。何かをやろうと思っても、その状況を非常に明瞭に想像できるので、やる気が起こらない、ということ。例えばその時、子どもたちのこの木に登ろう、と思ってみた途端、私はもうその気に登ってしまっていて、単に「こういう感じだろうな」っていうのじゃなくて、私はその体験を全て感じている。自分の身体のどの部分の筋肉が必要なのか、指に触れる木の皮とか、上から木の葉の間を通して下を見下ろし、リンゴを摘む感じとか、登る前に全てが既に起こっている感じ。でも、同時に私はここに座っていて、木登りをしているわけじゃないんだけど、もう経験済みな感触なので、わざわざやる気になれない。ある種の無意味さがそこに現れてくる。言っていることわかるかしら?想像するだけで事足りているのだから、やる気が起こらない、それなのに敢えて実際にやることもあるわけで。それはなぜ?
ロビン:僕に言わせると、もし、本当にそのような精神的な先読みを深く訓練していったら、僕たちはある種の経験をはもうしなくても良くなるんじゃないかな。精神面でそのような先取りというか、その痛みはどんな感触なのかとか想像が出来ないのなら、それは自分で体験しないといけない。そして、転生する前の僕らは、常に精神上で予想するという原理の中で生きていたのだと思う。なんでも想像することが出来て、全てはそこにあった。でも、己の身体で経験することは無かった。転生と肉体によって、経験を通してそれをより深めることが出来る。高次の意識レベルを考慮に入れれば、結局はその差はそれほど大きくない。つまるところ同じことなんだけど、分離した意識からの経験という点では違って見えてくるだけなんだ。
そして僕個人としては、何かの内部装備がより明確になってくるほど、常に精神上で予想するという原理の中で生きていたのだと思う。 まだ内面的に完全に気づいていないこと、まだ完全に浸透していないことの引き換えになるものとして、おそらく少しは経験が必要なんだ。そして、苦しみや病気、困難なことに直面したときには、当然これを使うことができる。内面的に深く浸透してくるものと向き合うことで、顕在化させて経験へ浸る必要がなくなる。
サンドラ:そこに、やっぱり他の転生からくる記憶や経験を取り出すことになる気がするの。経験したものはもう、必要がなくなる。
それでも、そこには対立するものがあるわ。一方では肉体を使って実際に体験したくなくなっていく…もしくはどうせ何でも想像できるし、既に体験済みのことに繋がれるので経験する必要がなくなる。しかしもう一方では…これをさっき聞きたかったんだけど… 突然、とても大きな決断を下すとか、とても大きな転機があなたの人生にやってきて、あなたはそれをただ受け入れるのかしら…?木登りでも何でも、そのときあなたはその大きな経験…本来恐れを感じていて、「ちょっと待て!それは出来ないよ」ってポッと念頭に浮かび上がってくるような経験は、まさにあなたの魂がこれまでしたことのない経験、だからやりたい経験として、ワンネスの総合意識があなたを通してやりたい経験、ということになるの?あなたはどう見ているのかしら。
ロビン:僕に言わせると、肉体にあっては次の経験に向けて小さな飛躍しか出来ないということ。それまでと似たような経験し、小さな飛躍、そして小さなまた飛躍がある。霊性状態にあると、それは全く違ってくる。瞬間ごとに別の世界へ潜り込み、時空間のなかで順に経験してきたことに制限されない。つまり、可能な経験幅がずっと大きくて、僕らはもっと柔軟だ。
こうした大きな飛躍によって、僕らには時空間に制限された意識の中ではひとまず恐ろしく思えてくるような選択が可能となる。「なんだって?これまでの生活をそこまで手放して、まったく未知で新しいところへ飛び込むのか?」
霊的レベルでは、何の問題もない。非常に単純、直接的、かつ明瞭に眺め、受け入れ、実行に移せる。肉体レベルでは、変更による効果を出すのに時間がかかる。そこでは常に、繰り返し精神面での先取りを行わないと、実行することによって人生を進めていくべき路線をはっきりと描けない。
サンドラ:最近、そこで何かが崩壊しちゃう気がするの。一方では「どっちだろうと構わない」というのがあって… 全てがどうだって構わない、そこにはあの「価値評価はしない」というのがどんどん幅をきかせるようになってきているんだけど、もう一方では、進むべき道は明白でないと、といのがある。この2つは相容れない。だって、全てが「どうだろうと構わない」のなら、進むべき道を決める必要なんてないわ。でも、そのどちらも大切なものとしてこの領域に在るんでしょう?
ロビン:うん。人生はパラドクスで成り立っていて…僕の世界観ではそれらは調和し合っている。「どうだろうと構わない」というのが大きくなれば、自分の定めである道の明瞭さも増大する。なぜならその場合は、二元性的分離意識の中とは人生の歩み方が違ってくるからだ。そこには瞬時から瞬時へと空虚で自由な、広い意識の中にアイデアがやってくる。それによってより明瞭になってくる。それに反して、もし自分の人生に何らかの計画を精神面で構築し、ステップ、プログラムを選んでいくことになるなら…そこには不安がつきまとう。だって、そこにはアレがあって、コレもあって、こっちの方が良くて、悪くて…そうして検討し直す。そのような領域では、過去の視点から自分の人生を構成しようとプログラミングし、管理することになる。新しい意識では、全く別の方法で人生を構築していくんだ。そこには衝動がやってくる。…自分から挑発しなくたってね。それはまったく違った人生へのアクセス方法なんだ。
しかし、そこに至るまでは本当に「どうであろうと構わない」と言うことになるよね。 すると、戦争だって「どうであろうと構わない」ってことになる。今の時代には際どいテーマだ。 なぜ、「どうであろうと構わない」ことに?こんなことを主張して、ジャッジメント(=ドイツ語は Urteil 。これを直訳➡「根源(Ur)を分ける(teil−)」)、分割(Teilung)、価値評価(Wertung)といった理念が意識から取り払われてしまった暁には、これまで我々が人生を通して従ってきた構造全体が失われてしまうんだ。
サンドラ:ありがとう。上手な方向へ誘導してくれて。その「ジャッジ(判定)をしない」という話を是非あなたと一緒に追っていきたいのだけど、ここでわかりやすくなるよう、またちょっとしたストーリーを話させて。
これまでの人生で、私は幾度もある持続的状態になって…人はそれを「悟りの境地」と言ったり、ワンネスと言ったり。あなたは知ってるでしょう?すると全てが「ふつう」な感覚になってくるわけだけど、でも、その瞬間が急に起こったことがある。あれはテキ・アカデミー(サンドラさんが考案したヒーリング学習塾)のクラス3のセミナーだった。私が講師なので参加者のことを気にかけていたんだけど、それで気付いたら…私の視界が膨大に拡張されてきてしまって、運良く丁度昼休みが来て、普段は皆で一緒に過ごしていたんだけど、私は皆に「ごめんね、ちょっと一人になりたいから」といってボーデン湖の方へ歩いていって、単に佇んでみた。そこは住宅街で木が植えられていて、美しい山と湖の景色の中にプラスチックが溢れ出ているゴミ箱があったりした。どこからか誰かが言い争う声、そして子供の笑い声も聞こえてきた。その全てが「どうであろうと構わない」感じ。あれは、私が完全なるワンネス、完全な“不関心”を初めて経験したときだった。そして私の理性はそこにあったの。それでもやっぱり理性はあって、私にこう語りかけてきた。「サンドラ、ボーデン湖の方がゴミ箱より良いはずだ」って。そうなの!私は価値を測ろうとした。そうしたかった。でもうまくいかなくて、評価をしない方がもっと本物らしく、強力で、明瞭に感じられた。それら全ては、単なる「経験層」なんだっていうことが明白だった。「玩具」なんだってこと。そう。喧嘩だろうと笑い声だろうと、ゴミ箱だろうとアルプス山脈だろうと、まったくもってどうだって良い。「同等価値」という意味で「どうであろうと構わない」わけ。そこから降りのが効果的なんだけど…それは単純にそういうことなのよ。
そこで、あなたは大きく角を曲がって「戦争と平和」に言及した。
私たちがもし、単純にこの意識で眺めて見るならば、違いはどこにあるのか…
ロビン:そう、分離した意識構造は「差別」を辞めるのがすごく怖いんだ。だって、そうすると我々がこれまで構築してきた世界の全てが溶解してしまう、アイデンティティと現実があまりにも大きく失われてしまうからだ。
ゴミ箱もボーデン湖も、戦争も平和も、違いはないって?
すべては「ひとつ」を表現しているのなら、自分はここで何をすればいいんだ?
なぜなら、全部が全部すべては差別的思考にあるからだ。
この思考が一旦停止するとき、私たちは何者ということになるのか。意識の深化によって、そんな思考が不可能になったなら?
まずは…息を止めて、自分を見直し、考えるだろう:「なんだって?こんなのありなのか?こんなので現実を経験できるのか?」
そして、ここで「戦争と平和」の例を取り出してみるとすると、問題は常に、「どの意識からなら、自分は平和の一部だということになるのか」ということだ。もしかすると、差別をやめた時こそ、僕らは平和の一部になるのではないか。なぜなら、そうすることで僕らは全く別の意識周波数に入ることになるからだ。そこにあるものと共に存在しても「構わない」からで、戦争へ走ることもない周波数状態…
「不関心(どうだろうと構わない)」って、分離した意識からすると常にネガティブに聞こえるんだけれど、仏教の概念でそれを美してく描いているものがある。涅槃(ニルヴァーナ)で最終的に体験されるものはパーリ語の「upekkhāウペッカー」(日本語:捨(シャ))、これは「どうだろうと構わない(不関心)」という感じの意味なんだけど、とっても素敵な充たされた統一にあってのことなんだ。面白いのは仏教だけでなく、他の多くの伝統においてウペッカーというのは僕らの意識が最後の方になって至ることになる状態のひとつだとされていて、その後はなにもない。
サンドラ:価値付与が一切ないこと、全てあるがまま完全に受け入れること…最終的には受け入れることさえしない。だって、それはあなた自身だから。
ロビン:その通り。
サンドラ:そこには「受け入れるべきもの」も存在していないのよね、だってそれはあなたで、あなた自身が表現されたものだから。
ロビン:そうそう。そこにはあらゆる分離は無くなっている。だって…ゴミと僕。湖と僕。すべて「ひとつのもの」の表現なんだ。僕に見えるものはひとつのものの表現のひとつで、あるがままの僕以外のなにものでもない。一つの偉大な生命が、私の周りにあるすべてのものを等しく動かしている。そしてそれは、分離した意識がとても恐れていることで、世界で最も美しい経験なんだ。
サンドラ:そして…(笑い出すと、ロビンさんも笑い出す)
私のあの、「悟りへの道の体験」をあなたにもっと話したいんだけど。でも、それは別の機会にしましょうか。今はクリスマス直前なので…今、私に浮かんできたのは「家族の(心理)投射」のテーマを持ってこれるかなって。クリスマスって多くの人たちにとって本当に課題というか。なぜって…なんだっけ、あなたはさっき(打ち合わせの時)なんて言ってた?
ロビン:“愛と脅迫の祭典”?
サンドラ:そうそう!(二人して笑う)
ロビン:…と、僕の最愛の人がいつも言うんだよ。
サンドラ:そうなのよね。だって、当然みんなで集まることになって…一年間全く…または珠にしか会わなかったり。それでクリスマスが来ると「愛の家族の祭典」となって、子供やら孫やら再会するとか、もしくは再会しないとか。そこで孤独という経験をする。孤独を味わうことで芽生える悟りがあるので、それも祭典への招待なわけで。ここでも「どちらでも構わない」というのが見えてくる。素敵なことの中にそれが隠されている。
そして…この「どちらでも構わない」というのを、家族が抱えているこうした全てのテーマに持ち込んで、素早く問題解決することは可能なのかしら?
何年も取り組んで、何年も見つめ直して努力を重ね、沢山のことを語り、赦し、…なんだかんだとやるんじゃなくて、「そう、あなたもやっぱり私で、私というものの表現のひとつ、私であるものをひとつ表現したものなのね」、というそうした状態に自分を置いて、近道を取ることは可能なのかしら。
ロビン:(少し笑って) そうだね…家族という文脈では、僕らが意識の中で自分自身を既に修得してきたものが最も強力に試される。つまり、家族の場では本当に全てのカードを出してきて、両手は卓上におき、自分が深めて身を浸しているつもりの意識がどれほど定着されているのかを眺めることになる。そしてもちろん、基本的には、多くの家族のもつれの解決と修復は、そのような形で見つめることができる意識の明晰ささえあれば、とてもシンプルで明白となる。
つまり、これは中立的で開かれた認知力を持てるかどうかに大きく関わってくるんだよね。もしその認知が、共有された過去の特定の役割を示すモデルなどによって歪んだり歪められたりすることがなければ、家族の文脈におけるもつれがどうすれば容易に解決されるのかも、はっきりと見ることができる。
サンドラ:私がよく言うのは、「あなた自身をよく整理すればするほど、あなたの中にある“スイッチ”を誰かに押されることがなくなっていく。整理すればスイッチはなくなっているので、誰もあなたから反応を引き出すことは出来ない」ということ。
「それでも相手が同じ行為を続けているのなら、窮状にあるのは相手の方であって、あなたは自由な観点でそれを眺め、あなたがそうしたいのなら相手を助けることも出来る」とね。
これは、さっきあなたが言ったことと同じよね。
ロビン:そう。家族や友情関係といった人間関係の文脈における共感への鍵は、常にそこにあるというところに僕は戻っていくんだ。
目の前の相手が「そのような意識の中にいて、そのような意識領域に接続されている」「だから(本人にはどうしようもないのだ」ということを感じて、その部位を活性化すれば… 僕の最愛の人がよく「無邪気さと美しさと混乱」っていう3つの要素を上げるんだけど、純粋で、歪みのない意識の場所から眺めてみると、すべての人の中に無邪気さ、美しさ、そして混乱しか見いだせないんだ。
もしかすると、これはこの祝日の間のちょっとした「知覚訓練」になる…貴重なことかもね。
サンドラ:私たちの次元シフトについてだけど。5次元への上昇とか…それとも5次元への意識拡張と言った方が良いのかしら。そのことを、「キリスト意識」と言ったりもするわよね。
あなたにとって、キリスト意識とは何を意味するの?そして、私たちはどうすれば…円滑に?もっともっとスムーズにそこへ入っていけるのかしら?
ロビン:君がボーデン湖の辺りのベンチに座ってゴミ箱を眺めていたっていう話が、すごく僕のインパクトを与えたので、それを持ち出そうと思う。その瞬間に、君の目を通して見ていたのはもはやサンドラではなく、キリストなんだ。
僕ら自身は、歴代受けてきた心理的条件付けにより、全てに愛を見出すことは出来ないが、僕らがすべてに愛を見出す時、キリストが僕らの目を通してそれを眺めている。
そして、僕らは自らの意識を整理して、明白さ、純粋さをもたらしていくことで、キリストの目を通して物事を見る、キリストの心を通して感じる、ということを学んでいける。
すると、この世が全く別のものに見えてきくる。
つまり、僕にとって「キリスト」とはある種の意識領域の表現であり、そこには愛がすべてに浸透しきっていて、誰もがそれを体験し、再度認識することになるんだ。
サンドラ:それでイエスはこう言えたのね。
「主よ。彼らを赦し給え。なぜなら、彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです」
ロビン:そうなんだよ(大きく頷く)
サンドラ:そう、だって彼には「無邪気さと美しさと混乱」が同時に見えていたわけで。(ロビン:その通りだ)
イエスは執着していなかった。彼はそれをただ感じ取るだけで、ジャッジすることは出来なくて… 感じ取りはするのだけど、差別はもうできない。
うん、そういうことね… 評価はしない、しかしとても愛に満ちた意識ということ。
ロビン:真髄だ。それこそ「僕たち」なんだよ。僕たちが心の奥底で「戻りたい」と切望しているところなんだ。
なぜって、僕らはジャッジして差別する度に、分離というものに苦しめられることになるからだ。ジャッジをすることで、分離を「演出」することになる。
ジャッジをする毎に、僕たちは自分自身から分離してしまうわけで、これには非常に大変でエネルギーを使い、消耗させられるし、心が痛む。よく観察してみると、そういうことなんだよ。
サンドラ:そうね。そして、内なるモチベーションは本来… つまり、誰かをジャッジする人というのは「自分は善行、あの人は悪行」とかいう分け方をしていて、自分は善側、つまり「愛」の側に立ちたいわけなのだけど、まさにそうすることで、そうなってはいないのよね。
境界線を設けるのではなく、自分たちをワンネスとみなすことで、「愛」が本当に顕れてくるのよ。それ以前は、敬虔さであり、善でありたい、愛すべき存在でありたいという願望でしかない。
私は去年、「“愛”なのか、“愛すべき存在”なのか*」というポッドキャストを配信したのだけど、 ワンネスの意識へ向かうためには、これは重要な区別だと思うの。
*【注釈】
ドイツ語で愛はLiebe(リーベ)といいますが、派生語として小文字で書いたlieb(リープ)という形容詞があり、日本語にはふつう「心優しい」「親切」「愛すべき」「良い人」と翻訳されます。サンドラさんのポッドキャストを訳者は以前試聴したことがありますが、liebがLiebeから来ていることを踏まえて深めてみると、このliebに込められた意味合いを更に深めることに。
ロビン:そう…そうだね、分離の意識、すなわち「エゴ」は、相手に合わせて親切、優しさ、愛すべき在り方を発揮することも学んでいるから。エゴは、それが思う愛の形を模写するんだ。
でも、僕は二元的、非二元的な愛について話している。非二元的愛とは本当にそれに尽きるので、全てが「どうであろうと構わない」。二元的愛とは大抵、僕らが分離の意識で生きてきたことで、結局常に「愛憎関係」となっていく。そこでは愛が「戦い」へとジャンプしていくんだ。すると、繰り返し…そう「愛しているよ」が「あなたが必要なんだ」、「あなたが欲しい」となり、そこに…二元性の張り詰めたエネルギー領域が出来上がる。それは本来「愛」という言葉で運ばれて欲しいものではない。
サンドラ:…そう。それってつまり「平和のために戦う」っていう矛盾と同じよね。何かのために戦うところには「敵」がいて、あなたはその敵を排除して、自分が「善」だと見なしたものに空間を確保しないといけない。そうすると、あなたの内面では常に警報が鳴り響いていることになる。「私の平和、私の愛は、いつまた脅かされるのだろうか」ってやつ。
そのようなエネルギーは、恋人・夫婦関係にも持ち込まれるわ。
私たちはそういうものではくて、単に愛を起源に生きればいいのに、多くの人たちは、その愛を護らないといけないって思っているから、そこに嫉妬が生まれる。誰かが彼か彼女をもっと素敵だと思ってしまうかも知れなくて。そのような意識から多くの病気も生まれている…その病気は「それは真の愛ではない」「それはあなたがここで生きるべきキリスト意識ではない」ということを示してくれているのよ。
ロビン:うん… 僕らには非常に特殊な宗教プログラムが与えられたからね。
そこでは、愛は何かに変容させられ、規則や戒律や規制や契約など、とても奇妙なエネルギ−領域へと引きずられていった。
そして、僕らが真に己に問うべきことは「もし、自分が善ではないのならば、自分は何者なのか」。
「もし、自分が自覚ある存在としてスピリチュアリティを追求する側ではなかったら?」
自分のことを「追求している側」とみなすことで、「そうではない人たち」が居ることを想定している。
こうした全てのことが、アイデンティティから洗い流されてしまい、二元的な区分モデルを採用せず、人生があるがままに簡単に受け入れたなら…それは本当に「マインドを超越したもの」へと自分を開くことになる。僕らの理性を超えたところだ。
サンドラ:…今日、私のスタッフに「“もし…だったら、私は何者なのか”という新しいシリーズをやろう」って話しかけたんだけど。
あなたが今、それをテーマにするのは興味深いことだわ。「手放した時、自分は何者になるのか」という話はインスピレーションとして非常に大事だと思うの。
「期待に添えなくなった自分は誰なのか」ということ。
もしくは、「誰かの期待を裏切って失望させたなら」とか…「もし、過去生の自分が誰なのか知らなければ、私は何者?」とか。つまり、もし「何かの土台に積み上げるのではなくて、今日から新しく“私”をやり始めるのなら」ということ。もし、私には全ての可能性が開かれているのなら、私は誰なの?ということ。
ロビン:「この世界と同化しなくなったとき、私は何者なのか?」
「自分の身体と同化しなくなった時、自分の過去とどうかしなくなった時、私は何者になるのか?」
「この役割をmもう演じなくなったとき、もう私が自分に隠れることをしなくなった時、私は何者になるのか?」ってやつだね。
いいね、うん。それらを自分に問いかけてチェックしてみることは、自分の内なる深淵へ向かう旅となるだろう。でも、チェックしてからだってまだ戻れるんだよ。「ああ、これは自分が望んでいたことじゃなかった」ってね。ある程度まで元のアイデンティティへ戻るかどうか考えてもいい。
でも、基本としてまずは「今まで同化してきたすべてを取り払ったとき、自分は何者なのか」を問いかけてみる。
自分についての観念や想念のすべてを取り去ってしまったとき、自分は何者で、何が出来て、この世におけるスピリチュアルな任務として何を叶えられるのか・ これまで信じていた全てを取り去った時に、自分は何者になるのか?
すると、純粋で素のままで空虚となり、深めることが出来る。
サンドラ:そうすれば、自分がいま感じたいもので満たすことができる…高次の意識が感じてみたいもの。その時、あなたは杯となって、流れてくるものを受け取ることになるのよね。そして、それは私たちが自分を失うということでは全く無く、その逆で、私たちはもっと深いところで自分を見出すことになる。
自分を見失うのは、恐れるからなのよね。
「それら全部が自分でないならば、私は何者になっちゃうの?」ってね。
もう、今の自分ではなくなってしまったら、人それぞれ制限があって、ある人はスピリチュアリティに関してだったり、ある人は物質界での関係性だったり、何処かでまだ完全には手放せないのは、あまりにも大きな一部が自分から失われていくような気がするからで。でも、まさにそれがゲートなのよね…より深く自分を理解するための。
そして、これを体験したことのある人は皆… 私は自分の講座ではこれを「最大の恐怖ゲーム」と呼んでいるんだけど、そういうの、みんな知ってるわよね。
あなたが最も握りしめておきたかったものを失ったとか、もしくは“絶対に起きてもらったら困るもの”、それが起こった、それがやってきた時こそ、やっと識ることになるのは、「それでも私はここにいる」ということ。
私が信じているもの、私にとって大切なもの、私を支えているもの、私を維持しているもの、それらすべてを超えた何かがある。
私は何にも、誰にも依存していない。それは非常に深い気づきで、内省を通して達成することができるわ。もちろん、それを長い間やらないでいると、恐怖の影が濃くなって、ある時点でそれが顕在化することになるわけだけど。
でも、そんなときでも、私たちはその中にある贈り物を見つけることができるのよね。
ロビン:なぜ、恐怖がものごとを顕在化するのか、それにも意味がある。
顕在化されるのは、その恐怖から自分を解放するためなんだ。恐怖のシナリオを体験し、そのことに気付いたとして、人生はそれでも続いていく。
最大の恐怖が反映するもの、これは非常に貴重だ。
サンドラ:そうね…うん。
ねえ、ロビン、視聴者にもっと渡せるものはあるかしら?
クリスマスを目前に、議題にするつもりだったことが、なんだかうまくまとまっちゃった気がするんだけど。(笑)
私がこのクリスマスと年始に向けて感じてみたところ、また大きなゲートが開くような感触があるの。何かを大きく招き入れるようなゲート、大きな可能性ね。
あなたから、何か言っておきたいことはある?きっと、あなたも何か感じているでしょう?
ロビン: うん…
また、あの地球が揺れて地面に亀裂が入るっているイメージを取り出したいんだけど、 もし僕らの地球…つまり僕らが生活を構築してきた場所に地震が起きたとして、僕らは自分を深めるために、その亀裂に飛び込んだとすれば、僕らは己の奥からものすごく貴重な宝を取り出すことになるだろう。
そして、このような移行期、ちょうど年の境目、クリスマスや年末年始のようなときは常に、多くのことを引き裂くような内面的な地震を起こすこともある、と僕は感じている。非常に不安定になる反面、それは深め、身を委ね、手放す、という経験へと導かれることでもある。
そしてこれは、この非常に繊細な時期に、僕らが己の意識を深めていくように、人生が僕らを招待してくれている、大きなチャンスにもなる。
サンドラ:ありがとう。
…私にもイメージがわいたわ。
皆で地面に立っていると、いたるところでひび割れた地面が揺れていて、踏ん張りたくても踏ん張れないので、私たちは勇気を出して飛び跳ねてみようってなって。そうやって亀裂の中で飛び跳ねながら、私たちはみんなで再び手を取り合うの。
わかる?それこそがワンネスへの飛躍なのかもしれないわ。
新たなる“私たち”、新しい共同体。でもそれは自らの力で起こらないといけない。どこかのグループに加わったり、誰かに従ったりするんじゃなくて。そうするとおなじみの摩擦が常に生じてしまうわけで。そうじゃなくて、完全に手放すこと、人生そのものに完全に身を委ねることで、団結する新しい力の中に何かが新たに生じるのよ。
そして私の頭にこんな一文が浮かんだわ。「亀裂に気づいていない人たちにすれば、飛び跳ねている人たちはイカれているように見えている。」
ロビン:そうだね(笑)
サンドラ:これ、なんだっけ?何ていうの?カオン?
ロビン:? カオン?
コーアン*のことかな?
(*Kōan;禅宗の「公案(問答)」)
サンドラ:コーアンだわ、ずいぶん長いこと聞いてなかったから。
ロビン:(遠くを見つめて考えながら)…うん、僕もちょうど、イメージで捉えようとしているんだけど。地球が割れたのに、亀裂が見えていない人たちがいて…だから、他の皆が何をしているのか全くしっくり来ていない。亀裂が見えていない人の不安感は如何ほどなものだろうか。飛び跳ねている人たちが居るのに?彼らは気が狂ったのか?何が起こったのか?とか。
その一方で、今この瞬間に起きていることへの深い信頼もある。人生が揺らぎ始め、人間関係が壊れ、人生の土台にひびが入り始めたのなら、「よし、今はこれを味わうしかない、今でなければ、いつなのか?」ってね。
サンドラ:そうなのよ。そして、あなたにとって今何が正解なのか、というのが考慮すべきことで、他の誰かが何をやっているのかじゃない。
これはすごく大事なことなので、繰り返しここへ戻らないと。他の誰かに耳を貸すんじゃなくて、本当に自分の心に従うのよ。
そして「これが自分にとっては正しい」と思うなら飛び跳ねるといい。
この一文は、確かニーチェの言葉の引用で、そこから転用したのよ。
「音楽が聴こえていない者たちにすれば、踊っている者たちはキチガイに見える」ってね。
それでね、私はみんなが踊ることを願っているの。傍観している人なんか、いないかのように、私たちは内なるものに突き動かされて、この祭日の間踊りながら、年を越すのよ。手を取り合ってね。
そうして、「(自分にとって)正しいこと」をするのよ。
ロビン:素敵だね…
サンドラ:今日は、こんな感じでいいかしら。
来てくれてどうもありがとう、ロビン。私たちの“音楽”を聞い“踊りたい”人たちのために、今回もまた、新たな領域を開くことが出来たと思う。
あなたにも、素敵な年末を。
また、近々会いましょうね、どうもありがとう。
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