プロフィール-投稿を始めた理由
皆さんどうも、阿良琉雨です。
今回は初めて見てくださった方向けに、私阿良琉雨の自己紹介やこれまで生きてきた軌跡、今発信している理由なんかをまとめておこうと思います。
ここには書ける範囲で全て本音で書こうと思っています。
今書ける範囲で、と言うことなので、おそらく数か月後には
「こんなこと恥ずかしくて人に見せらんないよ!!恥」
とか、
「なんか思い出してみたらこの辺はちょっと違う気がする」
みたいなことが起こり得ると思います。
そのため、おそらくちょこちょこ追記・編集・削除されます笑
一期一会の文章だと思って、今の私と会話している気分でお楽しみ下さい笑
あ、ちなみにめちゃ長くなると思うんで。
目次から読みたいとこだけ探してね。
(最終変更日時:2024年9月2日)
自己紹介
名前
名前は、阿良琉雨(あらるう)です。ペンネームです。
名前の由来は、特にありません。
基本的にこういうネーミングは雰囲気や語感でつける質で、この名前も散歩中に「どんな名前にしようかな~」の次の瞬間に浮かんだ名前です。
苗字名前のかたちで、それぞれ2文字2文字だと語呂が良くて何より記憶に残りやすいと思ったので、そこだけ決めてました。
「ん~、あらるう。あらるう。あらるうってなんかいいな」
で、家に帰って意味を検索。
「あら」は”ala”。
ラテン語で”翼”という意味です。
…うん、なんかよさげ。
じゃあ、「るう」は?
言語は変わりますがフランス語で"loup"がルウと読み、狼という意味になるそうです。
つまり、「あらるう」はある種、”翼の生えた狼”ともいえる。
……なんか、めっちゃよさそうじゃない?笑
私の一匹狼的な性格も表している気がするし、上に羽ばたいていきたい上昇志向も表れている笑
これはあまりにもいい思い付きだなと思って速攻で決定。
ちなみに漢字は、当て字です。
体型
特に今、私に直接会うと解りますが、結構ぽっちゃり体系です。というかもうぽっちゃりという言葉では誤魔化せなくなってきた笑
もともと保育園の頃からぽっちゃりした体型、というか、顔周りが丸かったんです。
それでついたあだ名は”ブタ”。
__おい、親呼んで来い。笑
もう今だから笑い話だからいいんですが、正直その時は本当に嫌でしたね。
そもそも根っから内向的な性格で、自分一人で遊ぶのが好きだったのでむしろ関わらないで欲しかったのでそういう意味では助かってましたが笑
小学校に上がってからも、クラスの男子やら家族からも太っている扱い。
母親だけは悪口のようなことは言わず、ただ可哀そうに(責任を感じて?)思ったのかおかわりはずっとなしでした。
今考えると小学校の頃は食事量も普通だったし、体重も平均より少し重いくらいで、まあ今考えると十中八九ただの遺伝。
まあ、そんなこと当時は誰もわかりっこなかったんでしょうね笑
高校の頃からいろいろな意味でストレスが増え、一人で行動する範囲が広がり(学校帰りの寄り道程度)、買い食いという習慣もでき、定期的におにぎりの買い食いが始まります。
おそらくこの頃の体重は50kg半ばくらい?
あまり覚えてはいませんが。
確かにお腹は出てたけど今考えると全然でしたね。
ただ物心ついた頃から「デブ」と言われ続け、そのほか考え込みやすい性格のお陰でストレスが最高潮になり、兄の反抗期や将来への不安などから、まあ痩せることを考える状態には無かったと思います。
そして大学。
バイトが始まります。
ただ私は本の中毒だったので笑
稼いだお金は基本本代に消えていきました笑
太り始めたのは特にここ1年。
大学院を中退し、家での生活が増えたことが原因でしょう。
またこれは昔からの悪癖、、みたいななんやらなのですが、ストレスが溜まると暴食に走ってしまう癖があり。
そして不眠も結構強いんですね。これも昔から。もう小学生のころからずっと。
そして不安が強くなって眠れなくなると、どんどん自分を責める声や苦しい気持ちで心どころか体全身が埋め尽くされるような感覚に陥ります。
そんな私にとって、食べることはその時できる最大の「逃げ」でした。
深夜3時や4時にむくむくっと布団から起き上がり、ストックしてあるカップ麺をすすり、ささっと歯磨きをして、寝る。
多分血糖値があがるからか、さっと眠れます。そして悪いことも考えなくなる。
おそらく低血糖の気があることが最近分かったので、枕元に大好きな黒飴やブドウ糖補給のためのラムネを置くことで現在は対処していますが、まあこれが体重増加の大きな要因…というか、もうこれが主原因ですね笑
そんな日々を過ごしていたら、なんとまあびっくり。
気がついたら10kgも増えていました。
おかげで今では66kgをしっかりキープするようになってしまいました泣
現在はこれ以上体重を増加させない様に定期的にブドウ糖を摂取して、とりあえず健康目的のために散歩とフィットボクシングをしています。
痩せたらいいな…
かわいい服を着ることはもう中学時代から諦めていたので、せめて20代で着られるように、少しずつ、チャレンジしていきたいです。
IQ
これは自分ってどんな人間なのか全く分からなくなった大学時代。
数年前、HSPや発達障害といった言葉が世に出回り始め、おそらく特に流行っていたころです。
HSPは明らかに私に当てはまる!と思い、そして発達障害ももしかしたら
…?と悩んでいました。
それまでなにかにつけ生き辛さを感じ続け、原因が知りたかった私は発達障害との出会いからおそらく1年ほど経ったころ、悩みに悩んだ結果精神科病院を受診。
この件について相談をしました。
先生からは「おそらく見た感じそういう風には見えないけど、どういう結果が出るかは分からないので受けるだけ受けてみますか?」といった返事。
自費診療になるとのことだったので、他の人の迷惑にならないのであればこれ幸いと検査を受けることに。
そして出てきた結果がこれ。
いやIQ120て…
特に言語理解が高いらしく、122とのこと。
まあ、そこが高い自覚はある。子供の頃から国語圧倒的得意科目だし。
他の結果と見比べて、おそらく不安を感じやすい性格なんだということを先生に教えていただきました。
そこから1年位、睡眠導入剤を処方して頂くように。
今は通院を辞めて半年から1年近くたちますが、まじで眠れないので、またもらいに行こうかな。
IQが高いことについては正直あまり自覚がないんですよね。
子供の頃からテストの点数は高かったな、くらい。
まあ自分は馬鹿ではないなとは思っていた笑
生きにくいと言われる高IQ130には全然届かないので、そこまでの支障は無かったのだと思われる。
一応120くらいが一番生きやすいそうだ…そうなんだ。
まあ多分このIQの高さのおかげで色々なことを考えすぎてしまうんだろう。
知らんけど。
生い立ち
両親は共働きでした。
兄は生まれつき結構な甘えん坊で、私が自己主張することがほぼなかったため、まあ母は割と兄につきっきりだったそうです。
物心つくかつかないかの頃には保育園に通い始め、すぐに転園。
最初の保育園はわりと穏やかだったイメージなのですが、2つ目のところが地域性なのかまあまあ酷くて笑
「体型」の欄で書いた「ブタ」と呼ばれたのはここです。
他にも純日本人にしては少し肌の色が濃かったので「まっくろくろすけ」。
まじで失礼笑 てかそんな黒くないし!
先生に何度か注意をされていたし、私も何かあったら先生に相談してと言われ続けたのですが、頑なに何故か何があっても先生には言わない私笑
今思い返すと、まあ言ったところで何が変わるわけでもないしと思ってた気がします。
先生に言ってさらに悪化したらどうするんだろうこの人?くらいには思ったと思います(超曖昧笑)
遊びも一人でおままごとしたり絵本読んだりだったので、基本自分の頭の中だけで遊べるし、本当に周りのことに興味がなかったんです笑
まあそんな感じで少し荒れた?保育園時代が終わり、小学校に突入します。
小学校にも悪ガキがおり、そこでも変なあだなをつけられます。
嫌な気持ちはずっと抱えてましたが、もうそんなもんだと受け止めるようになりました。
一部悪ガキがいたってだけで他の子は普通でしたし、友だちもできました。
内気だったので数は多くないですが。
学年が上がるたびどんどん人と話せるようになり、性格が変わっていったことは覚えています。
性格が変わったというか、表向きの人との関わり方を覚えたって感じですかね。
自分の芯の部分は保育園の頃から、いやおそらく赤ん坊のころから今まで何も変わっていません笑
小学校低学年同じクラスだった男の子と6年生でたまたま同じクラスになり、ある時「お前性格変わったな」「なんかすごい明るくなった」と言われたのはなぜか今でも覚えています。それだけ印象的だったのかな。
確かに小学校1年生の頃は本当に全然人と喋れなかったんですよね。でも6年生のころにはちゃんと人とどうやったらうまく付き合えるのか、適度に計算ができるようになっていた。
こうやったらこの人はこう動くんだろうな。
こう言ったらこの人は喜ぶだろう。
そんな無意識の計算がしっかり脳内に確立されていて、今でも言語化はできないですが、それが自然とできるようになっていたんです。
そしてある高校と出会います。
母が兄のために見学したいと言って、ある高校の文化祭に行ってみない?と誘ってきました。
私も高校に行くのは初めてだったので、面白そうだし、とついて行くことに。
多分、その時私は思ったんです。
「ここの高校に行ったら、お母さんは喜んでくれるんだ」
私は親に成績に関して褒められたことはありません。
超優秀とはいえないにしろ、人に勉強を教える程勉強は得意だったし、先生からの評価も高かった。
でも「褒めてご褒美をあげると、そのために頑張るようになったら困る」という方針で、友だちはいい成績が取れると○○が買ってもらえる、と言っているのに、私はその倍もいい成績をとっているのに、何も無し。
親の理屈も理解できたので、そういうもんなんだろうな。と思いました。
まあこの成績だって別に頑張って取れてるわけじゃないし。でも授業中ちょっと頑張って手上げたんだけどな。
気がついたら私は、否定されるのが怖くなっていました。
何かを頑張ったからと言って褒められるわけじゃない。
誰かが見てくれるわけじゃない。
でも成績が下がったら私、どうなるんだろうな。
多分下がらないと思うけど。
そんな風に考えていたと思います。言語化はできてなかったけど。
別に毒親というわけじゃありません。
母は教育熱心だったし、多分めちゃめちゃ愛されてる。
だけど、私の欲しいものを欲しいときにはくれませんでした。
そんな母が「兄をここに入れたい」らしい。
初めての高校の文化祭で、それも楽しい思い出が出来た初めて経験した文化祭で、多分私は何も考えず、「ここに行こう」と決断したのでした。
母親も賛成してくれました。
その時私は小学5年生。
中高一貫校だったので、頑張れば中学受験もできます。
ですがそこまで教育熱心ではなかった父の反対で中学受験は無しになりました。
そしてそんな私は中学に上がります。
中学では吹奏楽部に入りました。担当はサクソフォン。
ジャズなどでよく用いられる、おしゃれな楽器です。
たまたま父がアルトサックスを持っていたおかげで、私はそのサックスパートに入ることになりました。
他の楽器のことは考えませんでした。既に楽器があるのに、親に楽器をねだるなんてことはできないと思ったから。
部内のパート分けでは、顧問とコーチの前で希望する楽器を吹くことになりました。
ただ音階を吹くだけの、簡単な試験です。
おそらく私はあまりうまくなかったのだと思います。
ただ、親が楽器を持っていたから。顧問の反応は、そんな感じでした。
小学校のころから何かに打ち込んだ経験がなく、また勉強もできて当たり前、と思っていた私はひたすら何かを練習する、ということに耐えられず。
それも人前で練習するというのは私にとって特に苦痛でした。
その時の私にとって、練習というのは人にまだできていない状態を晒すことで、人前ですることではなかったからです。
もちろん同学年みんな横並びで初心者だったわけですから、そこまで卑下することでもありませんでした。でも当時の私にとってはとてもとても耐えがたい苦痛でした。
もちろんそんな私が上達するわけもなく、「あまりできない子」扱い。
皆優しいのでそんなことは言いませんが、パート練習や全体練習は晒上げられない様に(誰もそんなことは考えていないのですが)、と戦々恐々としていました。
学校の勉強は特に何も問題はありませんでした。
私は常によい成績を出し続け、5科目はほとんどすべてが5。
1つでも4があると、3者面談でそのことが指摘されます。
先生の苦笑いと、4が1しかない通知表の前で、何故か私は涙をこらえるのに必死でした。
小学校のころから通っていた塾でも、母は上の特進クラスに行ってほしいと言っていました。
もちろん、私が行きたいと言っていた高校は偏差値の高い高校なので、どんどん上を目指す必要があります。
中学2年のあるとき、模試で偏差値60代後半を叩きだした私は、ついにその特進クラスへの門を叩いたのです。
結果は、散々でした。
今になれば、なぜ全く勉強していない私の成績が常によかったのか、理解できます。
友達に勉強を教えるために、一瞬でも自分で問題を解いていたからです。
特進クラスに進み、ほぼ全員が初めてのクラスメイト。6.7人程度の少人数でしたが、そこに私の教えるべき相手はおらず、また人見知りのあった私は行くだけで緊張してしまい、さぼり癖のあった私は、すぐについていけなくなりました。
そのころから勉強に対して強烈な苦手意識が芽生え始めます。
「どうせやってもできない」
口には出さないものの、確かにそれは心の中での私の口癖でした。
宿題だってどうせやったってできない。
宿題が出来ないことがばれたら私は見捨てられる。
なんでこんなことも解らないんだって。努力不足だって。罵られる。
物心ついた頃からデブと言われ続けた私にとって、”努力不足”は常に自分に言い聞かせ続けてきた烙印でした。
ひたすらもっとやれ。とにかくやれ。黙ってやれ。
でもできないものはできませんでした。
そして誰にも相談なんてできませんでした。
この頃の話は、今でも誰にも話したことはありません。
「それってお前が悪いじゃん」
そう言われるのが怖いし、何より、自分でそう思っているからです。
高校に入っても勉強はできませんでした。
そして重くなる睡眠不足。毎日自分が自分を非難しました。
中学のころから始まった定期的な不登校は、確かに私の心の支えになっていました。
年に2回ほど起きる、1回2週間程度のプチ不登校です。
なぜそれで済むかと言うと、それを超えると出席日数が危なくなるからです。
家で何をするかと言えば、ただひたすら、ベッドで動画を見るだけ。
今思えば完全に鬱です。
でもそんなときでも「サボり魔」と自分の中の自分が罵り続けました。
高校生活での自習時間はおそらく合計しても10時間には届きません。
それなのに、奇跡的に合格した大学に、私は進むことになりました。
大学で勉強したことはかなり特定されてしまいそうなので具体的には言いませんが、そこで私は強烈に実現したいことに出会います。
ですが、それを実現したところで、何の利益にもならない。今の日本では、誰にも望まれていない。そんなことでした。
大学院で研究をしたいと思い、大学院まで進みましたが、教授との距離が一気に近くなり、精神的にしんどくなり、夏を迎える前には大学には行けなくなりました。
そこからずっとニート生活を続け、これじゃいけないと思った私は動画編集の仕事を開始。
そして現在、新たなステップに進むため、インフルエンサーの活動を開始しました。
私が発信活動をする理由
中学から高校。
この期間のことを話すのは、私にとって本当に涙なしには語れません。
ただただ怖いのです。この時期のことを話すことが。
なぜならそれは、自分をひたすら否定するだけの日々だったから。
そして、そこから抜け出す方法が欠片も解らなかったから。
今、私は幸せです。
定職にはつけていないし、母はすごく私のことを心配しているだろうけど。
それでも、人生生きてきて今ほど自分が自分らしく生きられている時間はないと思っています。
なぜそうなれたかと言うと、ここまで生きてきた過程で、自分がどういう人間なのか、わかってきたから。
どんなことが自分を苦しめて、どんなことが自分を楽しくさせてくれるのか、分かってきたから。
もちろんこの自由な生活のためでもあると思います。
正直、人に合わせすぎてしまう私は、就職した瞬間に自分をまた見失うことが分かっているので、この生活を手放したくありません。
そのために、この暮らしを続けたいのです。
ここまで大事に育ててくれた母を養えるくらいに、稼げるようになって。
でもそれだけではなく、昔の私のような人に、自分を否定しなくて済むように、何かできることがあればしたい。
私のIQが高いのであれば、それを活かして、情報をまとめて誰かに届けることを仕事にしたい。
それが今の私の目標です。
最後に
私はまだまだ発展途上です。
正直、性格診断を基にいろいろな発信をしていきたいと思っているけど、世界に絶対的な正解って存在しないし、「性格診断は確実なもの」だなんて全く思っていない。
それでも、「自分はこんな傾向があるかもな」と考えさせてもらうには十分な指標になるし、有効活用できるものはどんどんしていきたいと思う。
私は不器用な人間だし、まだまだ勉強不足な点が多い。
でも、昔はダメ人間の烙印としてだった”努力不足”ではなく、
今はただ”道半ば”だって思えるから。
だから、明日からも、発信活動をやっていきたいと思います。
何か改善できる点があれば、ぜひコメントなどで教えてください。
ここまでの長文、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
これからも阿良琉雨を、どうか、よろしくお願い致します。