表現、あるいは自傷行為

人間はだいたい、何かしらの”欠如”を抱えて生きている。

毎日の生活で、その欠如をどうにかして埋めれないかと悩みながら生きている。

表現することや創造意欲の源泉にあるのは、そういった欠如を埋めようとする意図が隠れている事が多い。

それは何も直接的な内容に関わったりするのではなく、作品の雰囲気や構造、言葉遣いなど、様々なところに作者の「色」として散りばめられている。

表現とは、自らの欠如を告白するような、また、コンプレックスを世に公開するような行為なのだ。

クリエイターにとって一番重要なのは、欠如に対してペンや彫刻刀、絵筆やフィルム、などの道具を使って、傷を抉るように加工する、”自傷行為”性がある事だと思う。

そこに向き合わずに、流行に乗せた作品や、”誰か”の言ったお役立ち情報をまとめてリピートするような機械に自傷行為性は無い。

つまり、技術の有無や、世の中にどれほど評価されるかは少しも重要ではないという事だ。

自分の”欠如”と真剣に向き合って出来たものの良さは、作者にしか理解できない事の方が多いからだ。


欠如を表現する者たちは、作品に悩まされる。

こんな恥ずかしい物を書いてしまった。この作品は自分の満足いくものではない。世の中に公開したくない。消したい。と。

それもそのはず、欠如を表現した作品とは自分の肛門なのだ。

満足いかないのは、その欠如が満たされない性質だからだ。

書き終わって消したいと思うのは、素面に戻った時には「なんと大それた事を書いてしまったのだ」という当然の冷静さが戻ってくるからだ。

それでも、臆する事なかれ。

表現によって、表現し続けることによって、その”欠如”を克服する事ができるのだ。

書いて、残す、という地獄の苦しみに慣れる必要がある。


さて、自分の欠如とは一体なんなのか。それは自分ではわかるはずがない。

作品と対話していく必要がある。

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