5月21日
日記を書こうと思う。
なぜ書くか?
自我の追跡とでもいうのだろうか。
私はこの頃、あまりにも散乱し過ぎている。
そのうち、自分がどこからきてどこへ行こうとしていたのか忘れてしまいそうだ。
今はまだ、社会的な繋がりを持つ事に対して憧憬を維持できている。
これがもし、プツンと切れてしまったらと考えると、、、。
自分の一番深いところを模索するとき、一人でいる方が都合がいいだろう。
なぜなら、隣にいる奴の気楽な笑い声や、なんの気ない雑談が癪に障るから。
こういったことを頭の中に留められている内は安心できる。
その事が、外気に漏れてしまうのは危険だと判断できていて、それをストップするような社会的な意見を持った自分がまだいる証拠になるからだ。
しかし、このような自分が疲れてしまうのも時間の問題ではないのか。
女性と交わりたいという思いが、もしかしたら、これまでの自分を安定させていたのかもしれない。
その糸が切れてしまってから、私の統一性や一貫性がとても弱くなってしまったみたいだ。
錯乱している、というのは、その瞬間ごとに、使い捨ての自分を適当に生産してしまう事を言っているのだ。
誰と話したか、いつ話したか、その時何を考えていたか、その度ごとに、自分は容易く生成され、その都度、矛盾した事を平気で喋っている。
どれが本物か、と聞かれれば、どれも本物だとしか言いようがない。
自分が何者であるかは、私と話した人物に聞かなければ答えようがない。
もし、鏡だけの、孤独な世界へ閉じこもった時、私は社会性を失うだろう。
そして、社会性を求める意思が無くなった事は、社会から存在が消えてから初めて知る事ができる。
心が寒い。
これは、孤独だからではない。スターバックスの店内で、感じる寒気であり、SNSで誰かと繋がっているから感じる寒気なのだ。
集団の中で、人の形をしない思想が霧散する時、人は孤独ともいえない放心状態に陥るのだ。
自分は今、誰に向けてこの日記を書いているのだろうか。
なぜ、頭に残さないのか。
目撃者を作りたいのかもしれない。
それは、知人でない方が賢明であろう。
彼らの前では、
この瞬間は間違いなく終わる。
だから恋も終わり、愛も終わる。
夢も終わる。
そして、自分にだけは決して終わりが来ないとは、言い切れない。
#シュルレアリスム #孤独 #錯乱 #ポエム #正確に理解しようとしてはいけない #正確さなどこの世にない
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