暗闇に垂れ下がった芳香
僕はその日、疲れていた。
人間関係のトラブルに巻き込まれてしまい、心身ともに疲弊しきっていた。
トラブルのきっかけは、グループワークで進めていたプロジェクトの中で起きた責任問題というありきたりな話だ。
そもそも僕は、こういう人付き合いそのものが苦手なのだ。
その上、揉め事があるなんて、何のために生まれてきたのか分からなくなってしまう。仕事なんてほどほどにすればいいのに。「責任感を持って、みんなが嫌がる事を引き受ける美徳」とでもいうのだろうか。
正直、そんな事のために自分の時間を使いたくはない。僕はあまり『僕』でいる時間が好きではないのだ。
僕は、社会的なつながりを切断され、糸の切れた凧のように、空中に意識を回遊させているときだけ、生きている実感が残るのだ。
一人の時は、同じ部屋にいながら世界中のどこにでもいけるし、何者にでもなれる。お金がないとか、やらなきゃいけない事とか、全部関係なくなって、鳥や木や虫にだってなれる。
そうやって旅をしていると、どうにか言語化して、文章にまとめて誰かに伝えてあげたくなるような感動や発見と出会うんだ。
何はともあれ、ひどく苦痛な人間関係のトラブルに身を置いてしまった僕は、そのことを忘れようと、YouTubeで「Kenny Burrell – Moon And Sand (Full Album) 1980」を流しながら、暗くなった夜道を歩いていた。
すると、ジャズの演出の一部かのように、どこからか芳香が漂ってきた。
その香りは、日中の熱気を冷ますように洗練されていながら、甘味料のような安らぎを与えてくれる芳香であった。
その匂いの発生源はどこか。周囲に目を凝らして脇道の野原を探索していると、緑の樹々を支柱にして、薄紫色をした野生の藤が、枝葉の間を縫って垂直に垂れていた。
近づくと、絡まった糸を解いてくれるような、濃い空気がたち篭っていた。
それはまるで現実に残された楽園への入り口のようだった。
緑の布地の上に、乱雑に垂れ下がっている具現化した芳香たちは、そよ風に乗って四方八方へと拡散し、見えない激流のように香りを撒き散らしている。
激流の芳香に酔い、遭難しそうになった僕は、反抗せずに、そのまま意識を回遊させた。
そのうち身体が、夜の寒さを感じとったので僕は、行き先のない帰り道を進んでいった。
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