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『河童奇譚』第一話 邂逅

「ああやばい。また怒られるー!」

葵は駅へと続く坂道を転がるように爆走している。その走りっぷりはゴミ出しに出ていたおばさんが思わず一歩引いてしまうほどだ。


村山葵、26歳。文系の大学を出てから、食品関係の会社で事務員として働いている。
正直、今の仕事は楽しいとはいえない。毎日、上司の無茶振りに耐えながら、理不尽なクレームの対応に追われ、お局さんのご機嫌を伺う日々。
つまらない仕事だと思いながらも葵は、これが社会人というものだと自分に言い聞かせ自分なりに真面目に頑張っているつもりだった。

だがその努力とは裏腹に、どういうわけか彼女は毎日必ずといっていいほど不運に見舞われる。実際は不運というよりはむしろ自らハプニングにはまっているようなものなのだが、本人はそうは思っていなかった。
こんなに毎日一生懸命生きているのに本当に自分には運がない。もし神様というものがいるなら一言いってやりたい。と常々思っていた。



そして今日も、朝から会社に遅刻しそうになっている。

葵は毎朝、トーストにハチミツをかけて食べているのだが、昨日の朝ハチミツを使い切っていたのをうっかり忘れていた。
ちゃんとハチミツのストックは買ってあったものの、雑多に詰め込まれたお菓子やシリアルのせいで、ハチミツが閉まってあった引き出しが半分しか開かなくなっていた。その中からハチミツを探し出すのは至難の業だった。
遅刻するかもしれないと思いながらも、葵はハチミツトーストの誘惑に負け、魔窟と化した引き出しからハチミツを救い出すことを選んだ。

たかがハチミツ。されどハチミツ。うまい。

葵はハチミツの救出に成功し、ハチミツトーストを堪能した。
しかしおかげで今、会社への道のりを猛ダッシュしているというわけだ。直りきっていない寝癖をぴょんぴょん跳ねさせながら車通りの少ない道を選んで坂道を降って行く。
ハチミツは確かにおいしかった。
だけど葵は今、猛烈な後悔にさいなまれている。

(一日くらいハチミツ無しで我慢しなさいよ。なんで時間ないの分かっててやっちゃうかなあ!自分!)

いつもこうだ。いつも選択を間違えてハプニングに自分からハマっていくのだ。


駅までの道は下り坂とはいえ、炎天下のアスファルトの上を走るとさすがに汗が噴き出してくる。それに遅刻して衆目の的になることを想像すると、さらに冷汗までもじっとりと滲んできた。
額から流れてきた汗が目の中に入ってきた。
葵は服の袖で目の周りの汗をぬぐった。
あいにくハンカチなんてものは持ち合わせていない。


腕で顔を拭う、その一瞬の間だった。そのほんのわずかな間に、猫が葵の進行方向に飛び出してきた。


「ふぎゃっ」と猫が鳴いた。


葵は飛び出してきた猫を蹴飛ばしてしまったのだ。
(なんてこった。食欲に負けて遅刻しそうになっているところに、可愛らしい小動物まで蹴飛ばしてしまうなんて!)
葵は自分の愚かさを呪った。

猫は蹴飛ばされて痛かったのだろう。ちょっとフラフラしながらそのまま走り去っていった。

「どうしよう。猫蹴飛ばしちゃった」

葵は遅刻寸前というのに、猫のことが気になってしかたなかった。確実に猫の腰の辺りをモフっと蹴飛ばした感覚があったのだ。わざとではないにしても申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

(私のせいで歩けなくなったらどうしよう)

そう思うと、蹴飛ばした猫の様子を確認せずにはいられなかった。
気づくと葵は猫が走っていった方へ走り出していた。また汗が目に流れてきたが、葵は気づかない。自分が傷つくより、誰かを、何かを傷つけてしまうほうがよっぽど恐い。葵はその恐怖にのまれて他のことを考える余裕がなかった。


猫は、建物と建物の間に立っている鳥居をくぐって、その先に続く小道へと走り去っていった。
鳥居は通勤路から見えるので存在は知っていたが、その先の神社には入ったことは一度もなかった。
葵は猫を追いかけて、鳥居をくぐった。そのまま細い小道を進んでいくと狭い境内にたどり着いた。そこは、手水と古びた社だけの小さな神社だった。

今日は日差しが強いせいか、神社の木々の緑がいやに鮮やかに感じる。猫を蹴飛ばして自己嫌悪にひたっている葵の心には、その鮮やかさは少々痛かった。

「猫さんどこ行っちゃったの…」

神社の中に入っていったはずなのに、先ほどの猫はどこにも見当たらない。
しばらく境内の中で猫を探していると、どこかから歌が聴こえてきた。



 楽を求むは人の性


 楽を憎むは人の世慣れ


 楽を尽くして死なんとは


 楽にたゆたう


 楽知らず



「…何の歌だろう」
子守歌のようにも聞こえるが、意味はサッパリ分からない。
葵が少し気味悪いなと思っていると、後ろから、

「撞楽調《どうらくちょう》という歌だよ」
と男の人に声をかけられた。


葵はびっくりして後ろを振り返った。境内には誰もいなかったはずだ…
葵のすぐ後ろには、薄い山吹色の着物を着た男が立っていた。
琥珀色の長い髪がさらさらと風に舞っている。年齢は葵と同じくらいに見える。ただ表情のせいかどことなく幼さを感じる。

葵は歌の名前を教えてくれたその男を、まじまじと見つめた。

(一体この人はどこから現れたの?髪長いけど男の人だよね。きれいな人…いやいやそんなことより、この人が抱いているのはさっきの猫じゃない!)

彼の容姿に目を奪われてすぐに気づかなかったが、彼は先ほど葵が蹴飛ばしてしまったと思しき猫を抱いていた。いわゆる八割れという模様の白黒の猫だ。身体は全体的に黒いが、顔の部分が八の字のように白くなっている。そして足は足袋を履いているように真っ白だった。

「あのう。その猫、私がさっき蹴飛ばしてしまって。足を痛がったりしてないですか?」
葵は恐る恐る突然現れた男性に聞いた。

「さあどうだろう。直接聞いてみたら?」
目の前にいる男は、意地悪なほほ笑みを浮かべながら葵を試すように言った。

(直接猫に!?)

この人は落ち着いているように見えて、実は飼い猫を蹴飛ばされてものすごく怒っているのだろうか。猫に聞けだなんて無茶ぶりもいいところだ。だが、言葉が通じないとしても傷つけてしまったものに対して謝罪をする心は確かに大切だ。

「さっきはすみませんでした。猫さん。足痛くないかな?」と、葵は彼が抱いている猫に話しかけた。

「痛いわボケ」猫が答えた。

「しゃべった…?」
葵は自分の脳みそがフリーズする音が聞こえた。
そして男の顔と猫を交互に見た。
男はあいかわらず意地悪そうなほほ笑みを浮かべている。猫はなんとなく不機嫌そうな顔だ。

「そりゃあ、猫だって痛けりゃ文句も言う」
男が猫をなでながら言った。まるで葵のほうが常識知らずとでも言いたげな雰囲気だ。

「いやいやいや。そんなわけないでしょ!あなたが言ったのね!」
葵は困惑を通り越して、怒りが込み上げてきた。

「見たままを受け入れなよ。そんなだから妖怪になってしまうんだ」
男は愉快そうに言った。

(妖怪?私が妖怪だって?なんて失礼なやつだろう!そりゃあ私は美人ではないかもしれないけど、妖怪と言われるほどではないはず!この人は黙っていたら確かに美しいけど、すごく性格がわるそうだ)


葵が一人憤慨している間に、男は柄杓で手水の水をすくって葵のところに持ってきた。
「ほら、見てみ」
と葵に柄杓を手渡す。
葵は促されるまま、その柄杓に入った水をのぞき込んだ。綺麗な水だった。

「これ飲んでいいの?」
葵は柄杓の水を見て、自分の喉がカラカラだったことに気づいた。なにしろ家からずっと走ってきてたくさん汗をかいていた。

「あほか。見てみろって言ったんだよ」

ほんとに嫌なやつだ。
男がじっと睨みつけてくるので、葵はしかたなくもう一度、柄杓の中をのぞき込んだ。

先ほどと変わらない綺麗な水だった。が、おかしなことに気づいた。
水面に映るはずのものが映っていない。
水面に映っているのは、見慣れた自分の顔ではなく、河童のような妖怪の顔だった。

「ぐえ!河童!?」
葵はその妖怪の姿を見て反射的に柄杓を投げ捨てた。

「あ!柄杓を投げるな!」
猫が叫んだ。

なんなのこれは。猫がしゃべったり、自分が河童に見えたり。私の頭はとうとうおかしくなってしまったんだ。
頭を抱えて苦悩している葵を見ながら、男は一層愉快そうだった。

「ははは。これはまた『いかにも』なのが来たもんだ」
男は無邪気に笑った。

「あんたにはきっと自分が妖怪になった理由がわからないんだろうな」
男は品定めをするように、猫を抱いたまま軽い足取りで葵のまわりをゆっくり一周しながら言った。

「私がなんで河童にならなきゃいけないのよ!だったらあなたはいったい何なの?」
葵は男の胸元をむんずとつかんでまくし立てた。
男は葵がすごんでも全く動じる様子はなく、

「私はこの国の八百万の神々のひとりだよ」と言った。

葵は自分のことを神だなんて言うやつに初めて会った。こんな傲慢なやつが神なもんか!

神と名乗る男は続けた。
「愚かな君に、今君に起こっていることいることを教えてやろう。ありがたく聞きなさい」
こんなやつの話なんか信じられない。そう思いながらも、葵の頭は混乱して、藁にもすがりたかった。

「君は何かのきっかけでこちら側の世界にやって来て、河童になってしまった。君はこれから妖怪として、この世界で新たな人生を歩んでいくんだ」

なになに。何を言っているのこの人。
藁にすがった結果、余計に混乱させられることになってしまった。

「あ!」
神だという男がさけんだ。

「人生じゃなくて、河童生か!」
といってゲラゲラ笑いだした。心なしか猫も笑っている気がする。
葵はもう一度この猫と神を蹴飛ばしてやりたくなった。

「まあそう落ち込むな。望みがないわけじゃない。妖怪から神になることもある」

なんだって⁉よく分からないが、河童よりは神様のほうが良さそうだ。

「どうしたらいいの?」葵はまたもや藁にすがってしまった。

「さあ、それは知らない」神はまたニヤニヤ笑っている。

(イライラ!こいつはきっと人をイラつかせる神に違いない。きっとそうだ。それなら神だというのも納得できる!)

「人が妖怪になる理由も様々、妖怪から神になる理由も様々だ。そういえば君はどうやってここに来たんだ?」



葵はこの神社にやってくるまでの経緯いきさつを、この神に話した。
いけ好かないやつだと思っても、窮地に陥った時は誰かに話を聞いてもらいたくなるものだ。
それにもしかしたら、ここに来た経緯が河童になってしまった理由と関係しているかもしれない。

神は葵の話を一部始終聞いて、
「どうして美味しいものを食べて後悔なんかするんだ」
と怪訝な顔で言った。


なぜそこが引っ掛かるのか。
(猫を蹴飛ばしちゃったこととか、神社に導かれるように来たこととか、もっと気になるところは他にもあるでしょうに!)

「たかが遅刻くらいで。バカなのか君は」

(うん。あなたに話した私がバカだった。)

葵はうなだれた。
(神様。いくらなんでも河童にするなんてひどくないですか。どうせなら、どこぞのお姫様や、すごい能力を持った勇者なんかにしてほしかった。河童なんて、せいぜい泳ぎがちょっとうまくなるくらいでしょ…)



「でもまあ自分で思ってるよりは酷い姿じゃないから安心しな」

きゅうり中毒になっていないことがせめてもの救いね。などと訳の分からない慰めを自分に言い聞かせている葵に神が言った。
神は今度は懐から鏡を取り出して葵に見せてくれた。その鏡に映るのはいつもの自分の姿だった。

「え、どういうこと?」

「あの手水の水はあらゆるものの真の姿をうつす水。さっき手水の水にうつったのが本来の君、つまり河童になった君だ。だが、ある程度妖力のあるものは仮面をかぶることができる。君はそこそこ妖力があったらしいな」

(つまり、河童になってしまったけれど、妖力があったから一応人の姿は保つことができてるってことか。ならまあそんなに悲観することもない。のか?)

「じゃあ、あなたも仮面をかぶっているの?」

「私はこれが真の姿だ。仮面をかぶる必要などない」

なあんだ。実は醜い鬼か何かかと思ったのに。
妖怪や神様の世界でも、不公平なのは変わらないらしい。なんでこんな意地悪な奴が、こんなに美しい神様なんだろう。



「じゃあ神様。名前を教えてよ。八百万もいるんでしょう。神様って呼んだら区別できないじゃない」

神はそれを聞いて、
「たまには、まともな質問もできるんだな」と言った。そして、

「私の名前は『瑞穂』だ」と名乗った。

覚えやすい名前でよかった。とんでもなく長い名前だったら覚えられないし、絶対にに途中でかんでまたこの神様にバカにされるところだった。

「この神社は、みずほの神社なの?」葵が聞いた。

「ここは、『あちら側』と『こちら側』の境界だ。私はこれから『こちら側』に帰る。君も一緒に来るか?河童くん」

葵は一瞬、今まで暮らしてきた世界で河童として暮らすことを想像してみた。だが河童が住むには今までの世界は窮屈に思えた。だったらこの神様に騙されたと思って、別の世界に行ってみるのもいいかもしれない。
普段は何を決めるにも散々悩む葵だが、この時は不思議と迷わなかった。


「連れてって」


葵は力強く答えた。

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