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『河童奇譚』第五話 狸回廊

川から屋敷に戻ると、玄関にお酒や野菜・果物やお菓子など、食べ物がたくさん置いてあった。

「なにこれ?誰かからの贈り物?」
葵が聞いた。

「供え物が届いたんだ」
さすが神様。でもいったいどこから届くのだろう。
瑞穂はお供え物をかかえてそそくさと中に入っていってしまった。
葵も屋敷に上がろうとしていると、
「今日から風呂沸かすの交代制な」
とゴンに言われた。


竈と同じように、この屋敷では風呂も薪で沸かしている。
昨日ゴンに竈で薪に火をつける方法を教えてもらったので、風呂を沸かすのはそこまで難しくなかった。

葵は生まれて初めて自分で沸かした風呂に入った。
浴室はすべすべの白木で出来ていて、湯気に木の甘い香りが溶け込んでいる。ヒノキとも少し違う不思議な香りだった。
そして、ゆっくりお湯につかると身体の疲れがすっと溶けていくのを感じた。水質も良いのだろうけれど、自分で沸かしたと思うと余計に気持ち良い気がした。葵は目をつぶって心地よさに身を任せた。お湯に浸かった腕をなでると、いつもよりつるつるしている気がする。このお湯の効果だろうか。
ふと、自分の腕を見てみると、腕は若草のような緑色になっていた。
葵はぎょっとした。腕だけではない、全身が緑色になっている。この風呂には鏡がないので、葵は水面で自分の顔を確かめた。すると、あの柄杓の水に映った河童と同じ顔が、風呂の水面に浮かんでこちらを見ている。
暖かい風呂で気が抜けて河童の姿になってしまったのか、はたまた水の中に入ったことで正体が露わになったのかは分からないが、今の葵は完全に河童そのものの姿だった。

(そうだ、私河童だった)

葵は水面に映る自分の顔に一瞬驚いたものの、冷静だった。葵は今まで「なんで私だけこんな事に。いつも私だけひどい仕打ちをうける」と自分の運命を嘆いてばかりだった。
だが『河童になる』ということについては、どういうわけか受け入れるのに時間はかからなかった。確かに最初はどうして河童にされてしまったのかと嘆きもしたが、葵は自分で予想していたよりずっと早く河童としての自分を受け入れていた…。


葵は風呂から上がると、貸してもらった着物に着替えた。河童の姿のままで着物が着れるのか不安だったが、身体の水滴を拭くといつもの人間の姿に戻っていた。やはり水に浸かると河童の姿になってしまうようだ。ということは、川で泳いでいた時も、もしかしたら河童の姿になっていたのかもしれない。


葵は着替え終わると、台所で夕ご飯を作っているゴンに風呂から出たことを知らせに行った。

「お風呂ありがとう。お先でした」

ゴンは自分も風呂に入ってくると言って、葵に夕飯の支度を託して風呂場に向かった。
今日の晩ご飯はゴンと相談して、葵が獲ってきた鮎の塩焼きと、お供え物の野菜を頂戴して煮物にしようと決めていた。鮭は明日燻製にする予定だ。
葵は鮭が腐らないように、先に冬の部屋の貯蔵庫へ鮭をもっていくことにした。



冬の部屋に行くと、やはり外は雪が降っている。庭には雪が降り積もっていて、月明かりが雪に反射しているおかげで夜の割には明るい。

その雪に覆われた庭で、一瞬、何かが動いた気がした。

しかし流石に雪が降っているくらいの気温となると相当寒い。しかも葵は薄い着物で冬の部屋に来てしまった。葵はあまり気に留めず足早に貯蔵庫に向かった。そして、貯蔵庫に鮭を丁寧に置き、凍りそうな手をすり合わせながら急いで春の部屋に引き返した。

だが、行けども行けども、出口が見つからない。

「あれ。出口どこだったっけ」

葵は屋敷の中で迷子になってしまった。
この屋敷はどこも同じような造りで無駄に広い。いったん迷ってしまうともう自分がどこを歩いているのか見当もつかなくなってきた。
しかも、よりによって冬の部屋で迷ってしまったものだから、彷徨っているうちにどんどん体温が奪われていく。足の先が、氷のように冷たくなってきた。体はこわばっていうことを利かない。



辺りは、とても静かだ。
しんしんと降る雪は、心までも凍らせていく。
冷えた心は、葵に暗い感情を想起させた。

遠い昔の、幼かったころの記憶。
独りぼっちで、何もかもがすり抜けていく虚無感…

葵は、廊下の隅でうずくまっていた。





「そんなところで丸まって、何してるんだ?」

葵が顔を上げると、瑞穂が渡り廊下を通ってやってくるのが見えた。手には大根を持っている。
葵は冷たくこわばった体が解けていくのが分かった。


「道に迷った」と、葵は答えた。

「屋敷の中で?そんなに広くないのに、どうやったら迷うんだ」

「むちゃくちゃ広かったよ!こんなに広いなんて思ってなかった」

「うーん?狸にでも化かされたか」

「狸?なんで狸が?」

「君、鮭持って行ったんだろ。食べ物を持ってるやつは化かされることがある」

「そうなの?鮭は獲られなかったけど、怖かった…。そういや瑞穂はなんで大根持ってるの?」

「ああ、君が料理を途中でほっぽり出してどっかに消えてしまったから、代わりに夕食を作ってたんだよ」
瑞穂はそれはそれは恩着せがましく言った。でもそのおかげで助かったのだ。何も言うまい。
それに瑞穂と話していると、いつの間にかさっきの冷え切った感情は霧のように消えていた。




結局、夕飯は瑞穂が残りを全部作ってくれた。
今日は葵が断固として冬の部屋には行きたくないと言ったので、三人で春の部屋で夕ご飯を食べることになった。瑞穂が作ったご飯は薄味だったが、出汁がきいていてどれもとてもおいしかった。



瑞穂がご飯を作ってくれたので、後片付けは葵とゴンでやることにした。
ゴンは後片付けを渋ったが、葵は一人でいると、また狸に化かされるのではと不安だったので、無理やりゴンに手伝わせた。


「ねえゴンはさ、どうして瑞穂と一緒にいるの?」葵は食器を洗いながらゴンに聞いた。

「特に理由はないけど、まあ俺猫だし昔から米に関係するところが落ち着くっていうか。それに今はいないけど俺以外にもここで寝泊まりしてるやつは結構いたんだ」

(なるほど、確かに米蔵のネズミ対策で猫が飼われることが多かったという話は聞いたことがある)

「そっかあ、じゃけっこう瑞穂とは付き合い長いんだ」

「いや?そうでもないぞ。だってあいつ俺よりだいぶ若いしな」

「ええ!?瑞穂の方が若いの?」

「そうだ。ま、俺たちに年齢なんてあってないようなもんだけど、俺は瑞穂よりだいぶ長く生きてる」

「ひええ!そうだったんだ。あんなに偉そうだから、てっきり瑞穂はすごい長老の神様なのかと思ってた」

「ははは!確かにそう見えるかもな!態度でかいからな、あいつ。まあでも神様の中じゃ、まだヒヨッコだぜ」

瑞穂のふとした瞬間に見せる幼い表情は、単に見た目の問題ではなく内面の幼さの表れだったのかもしれない。そう思うとなんだか少し瑞穂が可愛らしく思えた。

「昨日来てた水の女神たちは、瑞穂にとっちゃあ姉ちゃんみたいなもんだよ。ほら、稲は豊かな水で育つだろ。特にまだヒヨッコ神様の瑞穂にとって水の神様たちは大事な存在だ」

「でも神様って、そんなに頑張らなきゃいけないの?今日もすごい働いてたけどさ。神様って瑞穂みたいに皆んなあんなに働いてるの?」

「働くっていう感覚とは違うかもしれないけどな…。やりたいことやってるだけだろ。あんたには働いてるように見えたかもしれないけど、たぶん瑞穂はそういう感覚じゃないと思う」

「瑞穂は薪割も田植えも楽しいからやってるってこと…?」

「そりゃそうだ。やりたくないこと嫌々でも気張ってやってるのなんか人間くらいだぜ。でもまあ神様だって、ぼさっとしてたら消えちまうことはあるからな。いろいろ大変みたいだ」

「神様って消えちゃうの!?」

「当たり前だ。なんでも永遠に変わらないものなんてないだろ」

そうだ確かに変わらないものなんてない。人は永遠を望んで神に祈るけれど、神様だって不変でも永遠の存在でもないのだ。

「もしかして妖怪も消えちゃうことってあるの?」

「もちろん!妖怪なんて神様よりもっと弱いやつが多いからな。喧嘩して消えちまったやつなんかしょっちゅうだ」

そうなんだ。あんまり変な奴とは関わらないようにしよう。と葵は思った。



葵とゴンは、夕食の後片付けを終えて春の部屋に戻ってきた。
珍しく瑞穂が茶々を入れに来ないと思っていたら、瑞穂は春の部屋の縁側で眠っていた。
起きている時は嫌味ばかり言ってくるのですっかり忘れていたが、最初に出会ったときに感じたように、眠っている顔は純粋そうで、ちょっとあどけない感じがした。
葵は、薄かけを眠っている瑞穂にかけてやった。


昨日よりは幾分暖かい春の風が、屋敷の中をすっと、すり抜けていった。

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