絶望しない大人にはならない
できることなら人生において絶望なんて味わいたくないし、できることなら人生において問題なんて抱えたくないな、と思う。
けれども悲しいかな絶望的な瞬間はやってくるし、なぜか不思議かな、大きかれ小さかれ問題はいつだって抱えている。
*
「きっと絶望とは、ありえたかもしれない希望のことをいうのだと思います」
——これは、坂元裕二さんの著書『初恋と不倫』の中に出てくるセリフだ。
もしかしたら誰かが認めてくれるかもしれない、もしかしたらこの努力が報われるかもしれない、もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。このような「もしかしたら」という希望を持っていたのにもかかわらず、誰かが認めてくれなかったとき、その努力が報われなかったとき、間に合わなかったとき。
想像してみると、人が味わう絶望とは、たしかに「ありえたかもしれない希望」のことだな、と思った。
問題に関しても、「理想と現実のギャップ」が問題なのだから、そもそも理想なんてものがなければ、理想を下げて現状で満足してしまえば、問題なんて感じなくてすむ。
絶望を感じなくていい方法も、問題を生じさせない方法も、口に出してみると本当にかんたんだよな、と思う。
*
以前「大人になる、ということ」というnoteで、大人になるということは「絶対的な諦めを持ちながら、それでも何かを信じて前に進んでいけるようになること」じゃないか、と書いた。
この、「それでも」という感覚が、生きていく上でものすごく大切なんじゃないかなあ、とさいきんすごく感じる。
無謀な挑戦だとわかっていても、それでもがんばってみること。手の届かない相手を、それでも追いかけてみること。周囲に反対されるとわかっていても、それでも、自分の気持ちを押し切ってみること。
希望を持たず、理想を持たなければ、その分絶望もしないし、問題も起きないし、平穏に生きていくことができる。そんなことは十二分に、もう、わかっている。
でも、だからこそ、それでも。
絶望しない大人にはなりたくない。絶望できる人って、それだけ世の中に希望を持つことができる、強い人だと思うんです。希望がかなわなかったときは絶望がやってきてしんどいけれど、その代わり、希望をかなえることができるのは、希望を持っている人だけなんだよなあ。
こんな当たり前かもしれないことを今さら火曜日の夜に考えてみたりした。「それでも」と愚直に頑張っている大人は、誰よりもカッコいいんだよ。私も、そういう大人になりたい。