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「受動的」だけど「積極的」である

このあいだ、何の気なしにLINEやFacebookメッセンジャーを見返していて、「メッセージの仕方」には自分の性格がよく表されているな、ということにふと気がついた。私のメッセージの仕方は、「人によってバラバラ」だったのだ。

短文で送ってくる人には短文で。じっくり考えられた長文を送ってくる人には長文で。絵文字の種類、感嘆符の量。無意識のうちに、その人に合わせてメッセージを送っている履歴、が、そこにはあった。


誰からどんなメッセージがきたとしても「自分らしいメッセージ」を貫く人はたしかに存在する。

どれだけ長いメッセージが来ようとも一言で返す人とか、どれだけ一言でメッセージが来ようとも長文で返す人とか、メッセージを見ただけで、「あ、あの人だ」とわかるような文体を持つ人だとか──。

そう考えたとき、私はおそらく「受動的」な性格をしているんだなあ、ということを、ぼんやりと思った。


先日、仲が良い男友達と「メトロック」というフェスに行った。1日が終わり、へろへろに酔っ払い、あー楽しかったね、と言っていたら、その人がふと「昨日は違う女の子とここに来たんだよね」と言った。

ちょうど上記のようなことを考えていたときだったので、「あ、おもしろいな」と思った。「メトロック」という同じコンテンツを、2日間違う人と行くことで、その人はどういう楽しみ方をしたんだろう?

気になったので、「昨日行った女の子と私で、楽しみ方って変わるん?」と聞いてみた(それが聞けるほどにはフランクな関係だ)。すると、「え、ほとんど変わらないよ」と彼は言う。

もしかしたら私とその女の子の性格が似ていただけなのかもしれないけれど、おそらく彼はどんな人と行っても、能動的に「自分の楽しみ方」を貫くんだろうな、ということを思った。

私だったらきっと、行く人が違うと、同じコンテンツだったとしても180度楽しみ方が変わる、と思う。相手に合わせた楽しみ方を、きっとする。

やっぱり、私の性格の根本的姿勢は「受動的」なんだなあと、あらためて思うできごとだった。



それと同時に私が感じたのは、「受動的」か「能動的」かと、「積極的」か「消極的」かは微妙に違うんだ、ということだった。

事実として、「受動的」という言葉には「消極的」な意味が含まれるし、「能動的」という言葉には「積極的」な意味が含まれる。

けれど、これら2×2の言葉はどの組み合わせであっても成り立ち、相反するようで相反しないんだなあ、と。

私は、0から1を作り出すのは苦手だけれど、誰かが考えた0から1を、100にしたいと思う気持ちはとても強い。それはきっと、能動的な誰かの思いを受動的に受けて、それに対して積極的になることが好きなのかもしれない。

「受動的」で「積極的」な人間ってありえるんだなあ、とふと思う、月曜日の夜なのでした。


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あかしゆか
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。