仲は「ふたり」では深まらない
いくら側にいる大切な人だったとしても、話しきれないことは数多にある。家族や恋人、どれだけ仲が良い友達であったとしても、それぞれの関係でしか話せないこと、それぞれの関係だからこそ話せないこと、は、たくさん、たくさんあると思っている。
特定の人と長く同じ時間を共にするということは、一見、お互いのことを深く知ることにつながると思いがちだ。けれど、お互いがお互いのことを「知った風」になってしまったり、あるいはコミュニケーションが固定化されてしまったりして、実は長くふたりで同じ時間を共にする、ということだけでお互いを深く知るには限界がある、と思っている。
その一例がたとえば親子関係。毎日一緒にいることが当たり前になってしまったがゆえに親と対話をあまりしたことがない、といったような話を、これまでたくさん聞いてきたし、私自身もそうだった。
長く誰かと一緒にいるということは、思った以上に複雑なのだ。
そんな時、私が最近すごく大切にしていることは、「大切な人と一緒に、誰かに会いに行くこと」だ。それはたとえばどちらかの友人でもいいし、お店のマスターでもいい。とにかく、「(いい意味での)第三者と一緒に過ごす時間」は、とても大切で尊いものだと思っている。
たとえば2ヶ月ほど前、私の家族と、私の恋人とでごはんを食べに行った(自由人の父親は相変わらず来なかった)。初対面なので、自然と彼が私の家族にいろいろと質問をし、私の家族が彼にいろいろと質問をした。そしてその時に私は、「え、知らんかった」「そんなこと思ってたんや」と思うことがたくさんあった。
彼が起業したときの話や、母の東京の学生時代の話。母と彼と、それぞれどれだけ対話を重ねたと思っていても、私以外の誰かにしか切り取れない視点というものがそこには存在していて、私以外の誰かにしか見えない恋人の一面、家族の一面があるんだなあ、ということを感じた。
私だけでは見ることができない、大切な人の一面というものはたしかに存在する。「私と誰か」の関係性は一対一なのだから、ふたりだけでは、一対一のその先の関係性を築くことはなかなかに難しい。
だから、「私と誰か」の関係を深めるために──つまり「私と誰か」の関係を一直線上のものではなく多面的なものにするためにも、大切な人と一緒に誰かに会いにいくことが、すごく、すごく大切なのだと思う。一緒に誰かと会うことではじめて知ることができるその人の新たな一面があり、自分以外の誰かに切り取られる大切な人のその一面を見ることが、ふたりの仲を深めるために必要なことではないのだろうか。
今日も、そんなことを思えるような、いい三連休の最後の夜でした。明日からの仕事も頑張れるぞ〜。
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。