「なぜ書くのか」についての備忘録
もともと、自分のことは「書くタイプ」ではないよなあ、と思っていた。
私が「書くタイプ」と聞いて思い浮かべるのは、小学生の頃に作文コンクールで賞を取りまくっていたような、まるで書くために生まれてきたかのように天性的天才的文才を持つ人だとか、映画や音楽のレビューを書かせたらピカイチで、ある特定の分野においては誰にも負けないような熱い情熱を持っている人だとか、世の中に対して何かれっきとした課題意識があって「伝えたいこと」を持っている人だとか、そういう人たちのことだ。
一方私はというと、読書感想文や作文は得意ではなかったし、自分の中に「どうしても伝えたい思い」や「情熱を注いでいるもの」があるわけでもなかった。
だからきっとなんとなく漠然と、自分は「書くタイプ」ではないんだろうな、と思っていた。
ずっと文章を「読む」ことは好きだった。大学時代に本屋でアルバイトをしたことをきっかけに、人の言葉や文章に、自分の心を動かされるようになった。この人がこの本を読んだら人生が変わるんじゃないかとか、この人にいま必要な言葉はきっとこれだ! とか、おせっかいながらに考えて過ごした。
自分自身の中に伝えたい思いはあまりないけれど、その代わりに、周りにいる素敵な考えを持つ人のことばや考え、生き方を、もっと人に知ってほしい、伝えられるようになりたい。そんな思いから、いつしか編集者を目指すようになった。
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けれどさいきん、自分で「書く」ということは、とても大切なことなのではないか、と思うようになった。
自分という人間が、どのようなフィルターを通しながら世界を見ているかをていねいに記録すること。そしてそのフィルターの色彩や形がどのように変わっていくかを感じながら生きること。そういった移り変わりを、書くことを通じて知っていきたい、と、あるとき、ふと思うようになった。
それはきっと、今しか書けない表現が、今を過ぎてしまうと色褪せていくかもしれない感性が自分の中にある、ということに(遅らばせながら)気づきはじめたからなんだ、と思う。
だから、本当のことをいえば、十年前のこのエッセイを読み返して私はかなり恥ずかしい想いを味わった。このエッセイを書いている私は相当にいきおいこんでいて、真剣で、ひたむきである。そのいきおいこみかたやひたむきさ加減は、今の私のなかにはもうないしろもので、あったとしても形を変えていて、恥ずかしくなるのはきっとそのせいだ。
角田光代『愛してるなんていうわけないだろ』あとがきより
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「書くこと」は、自分の感性をていねいに磨いていく行為、だと思う。へたくそでも、うまくなくても、誰かに向けた文章じゃなくても、たとえ自己満だったとしても、自分はこうやって世界を見ているんだ、ということに向き合うこと。書くことは、感性を売りにする編集者にこそ必要なのかもしれない、とさえ思う。
山田ズーニーさんは、書くことは「解放」であり「理解」であり「創造」だと言う。川上未映子さんが書いた、早稲田文学「女性号」の前書きを、下記に書き写す。
いつもあまりに多くのことを見過ごして、そしてまちがってしまうわたしたちは、まだ何も知らない。わたしたちは知りたい。わたしたちは書きたい。わたしたちは読みたい、目のまえにひろがっているこれらすべてがいったいなんであるのかを、胸にこみあげてくるこれがなんであるのかを、そしてそれらを書いたり読んだりするこれらが、いったいなんであるのかを、知りたい──その欲望と努力の別名が、文学だと思うのです。
きっと、自分についてのあれやそれやを書くことは、広義の意味での文学なんだと思うのです。文学的に生きていきたい、そんな「書く理由」をふと書きたくなった、月曜日の夜。