「刺繍の裏側」を想う
「人生は刺繍のようだ」と誰かが言っていた。詳しくは忘れてしまったけれど、たしか有名な海外の哲学者の言葉だった、と思う。
日々を生きることは刺繍の糸を編むことによく似ていて、歳を重ねれば重ねるほどに人生の刺繍が形を成す。最初の方は間違うことなくキレイに正しく縫えていたとしても、どこかで少しずつ間違えたり絡まったりしていって、その絡まりを下手にほどこうとすると、さらにもっと複雑に絡まっていく。
人生は、裏側が複雑に絡まり合ってくる後半こそがおもしろい、とその哲学者は言っていた。たとえどんなにキレイな模様を描いている刺繍だったとしても、その裏側は限りなく複雑なのだ、と。
それは「人間の複雑性」を表現する、とてもステキなたとえだな、と思った。
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人間の複雑性がとても好きだな、と思う。大人になればなるほどに、「あなたはどんな人なの?」と聞かれるその問いにうまく答えることはできなくなっているし、会社で隣に座っている先輩のことも、大学時代にとても仲の良かったともだちのことも、自分の両親のことも、本当の意味で理解することなんて無理なんだということに気づいていく。
キレイな言葉を紡ぐ人、いつも笑顔を絶やさぬ人、丁寧な暮らしをしていそうな人。そんなキレイな刺繍を持つ人たちの裏側に触れると、失望するではなくむしろその人たちのことを好きになる。あ、いいな、と思う。昔から、雨上がりの虹を見るよりも、誰かのズボンに跳ねた泥を見る方が好きだった。根本的に、キレイなものより汚いものに惹かれるタチなのである。
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ただ最近は、「自分の刺繍の裏側が複雑で何が悪いんだよ、それをさらけ出してむしろ愛していこうよ」みたいな風潮があるように感じていて、それに対しては、うーんどうなんだろうなあ、と思っている。少なくとも、私はその境地に至れていない。私はコンプレックスがたくさんたくさんあって、とてもじゃないけど誰にも言えない、とても弱い人間なのです。
三島由紀夫さんじゃないけれど、自分の汚い裏側を呪い、隠している人の方が、私にとっては等身大で魅力に感じる。「ほら見てよ」と言われて見る刺繍の裏側よりも、人と人としての関わりの中でふとした瞬間に垣間見える刺繍の裏側の方が、今はとても美しいな、と思うのだ。