「成長物語」の主人公をやめてみる
「成長」。そう聞いて思い浮かべるのは、ひさしぶりに会う親戚や友達の子どもに対してつい口から出てしまう「あんなに小さかったのにこんなに成長して……!」というセリフや、できないことができるようになった・技量が見るからに上がった・人間的に寛大になった人に対して抱く感情などのことだ。
物理的なものか心理的なものか、はたまた技量的なものかはさておき、世間一般で言われている「成長」とは何かが「大きくなること」を指している、それは間違いないのだと思う。そして、成長=良い、とされていることも、同じく間違いないことなのだろうな、と思う。
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私は(比較的)まじめだから、そして私の周りの人も(比較的)まじめな人が多いから、成長を求められてきたし、当たり前のように成長することで返してきたし、自分自身も成長したいな、と思っていた。
そういった「成長物語」は私や私の周りだけにとどまらず、東京やSNSのあちこちで見受けられる。誰かの成長に感動し、誰かの成長に焦り、誰かの成長を自分の成長の糧にする。成長とは何かが変わること、そして何かが変わる場所にはいつだって物語があり、それらの物語は人を惹きつけている。
「成長物語」が魅力的なことは重々承知の上だ。承知の上で、私は「成長物語」を自分の物語のベースとしておくことに、最近、違和感を覚え始めている。
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去年の夏頃、Netflixの「テラスハウス東京編」を何の気なしに見ていたとき、思うことがあった。
テラスハウスの住民たちは「夢」がある人たちが多い。モデルになりたい人、自分のブランドを成功させたい人、美容師として活躍したい人、一人前の料理人になりたい人。住民たちは夢を語り合う。住人たちはみんな、自分の成長物語を生きている。
そんな中で、特に夢を持たない「アーマン」という男性がいた。私は、アーマンのことがものすごく好きだった。どんな文脈でだったか忘れてしまったけれど、アーマンが呟いた下記のセリフが、頭から離れない。
「みんな夢に向かっててすごいかっこいいと思う。でも俺は行き当たりばったりで生きるのが一番楽しいから、それでいいんだ」
このセリフを聞いたとき、私は、「アーマンだけは、成長物語を生きていないんだなあ」と思った。東京という荒波の中で成長物語を生きているほかの住人に紛れて、毎日の些細な幸せを綴るエッセイのような生き方をしている人なんだ、と。そして純粋に、素敵だな、と思った。
ここ最近の私は、このアーマンのセリフがことあるごとに頭に浮かんでくる。素敵だなあ、と何度も思う。「一度、成長物語じゃない世界で生きてみたい」と思う気持ちが、日々、膨らんでいる。
私は今、自分の成長物語の主人公を一度やめてみる時期なのかもしれないな。そして私がのびのびと生きれる物語は、もしかしたら成長物語ではないのかもしれない。わからないから、一度、試してみたいのです。大きな目標を持たない、のんびりした生活とやらを。そういう時期も、あってもいいんじゃないかなあと思う、月曜日の夜。今から確定申告のつづきをします。