ChatGPTを情シスが使ったら、小道具になるか
結論からいきますと小道具になりそうです。
ただただ質問を繰り返す方々に、「ググれ」ではなく「チャットしろ」という時代がすぐに来るかもしれません。
ChatGPTはGoogleが恐れるだけのことはあります。
でも一方で、しばらくは人工無能である可能性もあります。
ChatGPTって何?という方はぜひググって下さい。以下では書きません。
良かった点
会話のように文章で質問できる
回答は読みやすく文章や箇条書きで示してくれる
プログラム例など、ある定型の質問に対してはえらく洗練した答えを返してくれる
悪かった点
単語のみの質問は答えられなかったり、おかしな回答だったりする
あきらかにひな形に情報を流し込んでいると感じることが多い(だってインターネット上の情報の寄せ集めですから)
一般論や毒にも薬にもならぬ回答を間違いを交えて出力する(毒になるような言葉は骨抜きにされている)
ChatGPTに思う
ChatGPTは明らかに騒ぎすぎです。
1980年代にマイコンが流行りだした頃に”人工無能”という偽チャットプログラムがありました。
1990年代には”エキスパートシステム”なる構想でコンピュータが職人に代わるなんて言われました。
その間にもニューラルネットワークやらAIやらディープラーニングだシンギュラリティだと流行り言葉は数知れず。
毎度毎度、明るい未来に心躍らせたものでした。
そしてすぐに幻滅期を迎える。
ChatGPTも似たような道をたどります。
でも、そんな言葉にあなたも私も載せられます。
載せられて踊らずにはいられない。踊らなにゃソンなのです。
おすすめは、冷めた目で素早く踊る。そして周りにも踊ってもらう。
そんな使い方が情シスの小道具としての流行りものの立ち位置ではないかと。
踊り終わった後にChatGPTが残したものが、かつてのYahooやGoogleの検索エンジンのように、ただただ質問を繰り返す方々を救い、ひいては情シスを救う真の小道具となってくれることでしょう。