詩|誰かのために詩を書ける?
わたしは自分や自分の人生に意味づけたくて、理不尽な暴力にも理由がほしくて、詩のようなものを書き始めた。詩というものも、生き抜く術も、知りようのなかった頃のことだ。
誰にも言えない苦しみに自分なりの意味を与え、名づけ。そうして一つずつ小石をつくり、岸になるよう積んだ。すぐに崩れてはまた。
抱えきれない感情や衝動を、言葉を憑代に身から剥がした。排出されたそれは、まるでわたしの分身か、作品のようだった。 逃れようのない暴力を書くことで整形し、歪ませ、折り合いをつけようとしていたのだと思う。
今では、何らかの現象に価値を付加したり教訓づけたりするために言葉を遣いたくはない。詩かくあるべしなどという大袈裟なことではなく、個人的な話。理由などわからないまま、意味のないまま記したい。
3月は自殺対策強化月間である。10日には東京大空襲のひとつがあった。
11日は。
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2011年3月11日。わたしは妊婦だった。身悶えるビルと千切れそうな電線を睨みつけながら、腹ごと息子を抱えていた。その夜から繰り返し放送された気仙沼の映像が、今も焼きついている。闇と炎の蠢く海は現実味を欠いてすらいた。それほどの現実だった。
photo : @R_Yaguchi(2011.3.16)
1、2日のうち、学生時代からの友人が地元である宮城県石巻市へ戻ると知った。混乱のなかSNSを介して彼らの言動を見ているうち、ふとこれは始まった。
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「震災詩」なるものを書かなくては、と構えたことはない。そもそもこれは何だろう、わたしは詩を書いたのか。詩を作る者として関わろうと考えたのは、ずっと後のことだ。
SNSに流れ埋もれていく彼らの言葉を、たった今失われつつある何かを書き留めたい、憶えているよと言いたい、そこに嘘はないがそうした〝有意義〟な意図は動機ではない。わたしにとって詩は、もっと衝動的なもの。
書くしかなくて書いた。現実をこの身に留めておけなかった。良心や義務感ではなく自分本位の本能的な恐怖だ。計り知れぬ喪失、底知れぬ不安、なのに風化していくことだけは知っているから、せめて糸口をとらえたかった。今もそうだ。憶えているものも、それを忘れてしまうこともこわい。
「ひさいしゃ」「のために」書くのではない。時間が、出来事が、抗いようもなく書かせる。わたしという一人の被災の記録、未だ続く被災の一つのかたちなのだ。
昨年末、宮城へ行った。仙台から入り石巻に泊まった。女川、雄勝へと車で移動し、歩いた。
つやつやの海鮮丼を食べた。夕焼けが眩かった。海は静かに澄んでいた。何を見ても泣くまいと考えていたがある場所ではもう、堪えようがなかった。目を逸らすことも声を発することもできずに立ち竦んだ。詩にしようとは、今もまだ思えない。
たとえば言葉にならないものを言葉で紡ぐのが詩なのだとしても、あの空白に見合うものなどあるのだろうか。
あの日から一文字も書き出せないまま、わたしは行間にいる。 ただ素描していたいと思った、冬の陽だまりによく似た、果てしのない白紙を前に。
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※この記事は2015年3月10日に「詩客」で公開されたエッセイを少し直したもので、日付は掲載当時のままです。
初出|連載エッセイ「しとせいかつ」第3回
誰かのために詩を書ける?―石巻にて
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