じぶんってネガ?ポジ?
【自分の中のネガポジケイパビリティの共存こそ、が社会の縮図なのではないか】
多くの人が著書「人新世」を読んで感じるように、自分も今の資本主義や民主主義に疑問をもち、どうしようかなぁ、みたいなことを考察することが多いのですが
自分という器の中に、やはり社会の縮図が埋まっているんだとここ最近、体感している。
たとえばネガティブケイパとポジティブケイパの混在だ。
こんな未来にしたいというビジョンを思い描き、
あぁ、めっちゃおもしろいじゃん、
小さくても新しい自治体みたいなのMVPでつくって、はやくまわしたい!!っと思うポジティブケイパがある一方、
例えばなんか今日は、ネガティブじゃないかもだけど、
「なぜ頭でわかっていてGDPというルールからQOLで生きられないんだろう、あー、根本の構造を深く考えねば、ルソーの研究したい。でも何百年も過去の偉人が言ってたことを、自分が数日考えても答えは出ない、わかっててもゆっくり今は考えたい、あぁあああ。」みたいな。
昨日も今日も同じ自分なのに不思議なほど共存する。
個人→世界。
広い宇宙にちっぽけな存在な自分という個人の中にも、縮めた形で、この世の中の縮図みたいなのが存在する!!!というのを体感した。
これに関する今の自分の仮説は、『2つはむしろ、必ず行き来するべきなんじゃないか?』ということだ。
自分は楽観的だし、これ!と思ったらヘラヘラしてしまうので、逆に不安な人の意見を聞くと、ハッ!そんなん考えてなかった、あぶないあぶないと思うし、
ネガティブな傾向の人にとったら、わたしのようにシンプルトンな感じは、ほぅ、、そうか考えすぎかぁとなるようなので、両方の行き来が必要だ。
プロセスに関しても、ちょっと立ち戻ってぐるぐるすると、新しいものがうまれたりする。
ニュートラルにいくつかありえそうな未来を準備として描き、それらに対して、
矛盾をなくすぜという思考が強めな認識があるけど、一つの正義は危険であり、
「矛盾やらなんか気持ち悪いけどそれらを受け入れる」こともケイパビリティ、れっきとしたチカラなんだというのが、最近2週間の学びだった。