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「アメリカン・スナイパー」になれなかった『アメリカン・スナイパー』

クリス・カイル。『American Sniper: The Autobiography of the Most Lethal Sniper in U.S. Military History』の著者と言えば、アメリカではしらない人がいないだろう。イラク戦争で四度の派遣、合計で160人以上を狙撃した伝説的な狙撃手だ。

彼は自伝を出版し、暫くしてから今度は別の元軍人に殺害されることになった、らしい。らしい、と一応ニゴしたのはいま現在裁判が行われている真っ只中で、分からないことも多いからだ。その最中に公開されたクリント・イーストウッド監督作品『アメリカン・スナイパー』は、その影響力の大きさを勘案して陪審員はいまだ閲覧を禁止されているという。

英雄譚であり、家族劇である。

『アメリカン・スナイパー』を一言でいえばこういう話だ。テキサスで暴れ回っていた二人の兄弟がいた。長男は9.11をきっかけに、軍人になりシールズに入った。イラクに派遣され「伝説」と呼ばれる狙撃手になる。しかし、戦争の経験は彼を少しずつむしばんでいく……。

この裏側で行われるのは、クリスがナンパで知り合った女性と結婚し、彼女を国に置いたまま戦争に出かけ、子供の出産にも立ち会えないという「不出来な父親」としての物語だ。クリスの戦後は「父親」と「元軍人」の間で揺れ動く……日常と戦乱の日々の間で正気を保とうとするあやういバランスの上に成り立っていた。

イラク戦争であり『グラントリノ』でもある

そうしてみるとこの映画は実に何もかもが曖昧に描かれている。クリスの内面に起こったらしき変化も、イラク戦争で劇的に変わってしまったらしきアメリカの自画像も、伝説と呼ばれることで得た物も失ってしまったものも、全てがはっきりと示されることのないイーストウッド流の深い深い夜の霞の中で行われる。かつてアメリカを席巻した『グラントリノ』に見えたような悲劇的だが、効果がわからない曖昧な結末が『アメリカン・スナイパー』ではほぼ全編にわたって浸透している。

それでも戦場の描写、とくにただたんに銃を向けられただけの住民達の表現は滑稽なぐらいに平面的でリアリティが無く、だからこそアメリカ軍の派遣によって日常が戦場になってしまったイラクの人々の絶望を描き出して深い(なお、日本もまた歴史のねじが緩んでいたらこうなっていたに違いない、ということを想起させるに十分だ)。同時に、元オリンピック狙撃手であった「ムスタファ」やイラク住民たちを恐怖で支配するザカルウィや虐殺者といったテロリスト側の人物の描き方もなかなか鋭い。

アクション映画でもあり、絨毯のシミでもある。

アクション映画らしく狙撃合戦や大量の敵に囲まれた状態での戦闘といった「いかにもハリウッド的な」シーンも多いが、むしろそうしたシーンに対するやる気は薄く、子供達が遊ぶ庭の様子や、ただのバーにある酒の種類、あるいはイラク人家庭の床に敷き詰められた絨毯の細かさなどに目がいくのは、監督というよりもスタッフたちのモチベーションにもよるだろうか。

本作は正直見ていて楽しい映画ではない。むしろ逆で気が滅入るくらい映画だ。『アメリカン・スナイパー』の英雄的な振る舞いにたいする辟易が映画全体から漂ってくるのは、他人の家で歓待されたのに銃床で殴りつけたり、安全確保に失敗して殺されるのを黙ってみているのがまともな人間の感性ではない、ということをみなが知っているからだろう。もはや9.11すら遠い過去になりつつある今、私たちはこの戦争が見せつけた英雄譚にも悲劇的な物語にもある種のうんざりした視線を投げかけざるを得ない。だが、無関心でもいられない。熱狂と無関心と諦念と疲労の間にある奇妙な倦怠感。それは『アメリカン・スナイパー』全編にただよっている暗さの一隅であり、僕たちがこの題材に思う複雑な気持ちの反映でもある。

俳優達もユニークで面白かったし、グロテスクなシーンはないけれど実に精神的に参るようなシーンは一つ二つではない。見るときは元気なときに限る。

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