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「トバないLSD」としてのホロライブ

Appleの創設者スティーブ・ジョブズがLSDという幻覚剤を使用した経験を「人生における最も重要な出来事」に上げたエピソードは有名だ。彼の情報空間への親和性の土壌にはLSDを含むヒッピー文化があることはしばしば指摘される。LSDはもちろん多くの問題を含むが、少なくともジョブズには世界体験の拡張と能力の解放をもたらした。

どうにか、安全かつ合法的な別の手段で同様の体験をできないだろうか。そこでこの記事では、社会と融和的に感覚拡張と解放を体験できる方法を紹介したい。いわば「トバないLSD」。

それは、バーチャルyoutuberグループ「ホロライブ」である。

バーチャルyoutuberとは、ドラゴンや天使などの架空の設定を持った二次元アバターを使い動画配信を行う配信者である。その中でも、ホロライブはアイドル路線で配信を行う業界最大手の事務所・グループであり、日本以外の英語圏・アジア圏にも展開している。視聴者は彼女たちのゲーム配信や歌、メンバー同士の会話を視聴しながら、コメント機能を使用してリアクションをしたり、他の視聴者の反応を楽しむことが出来る。

このように表現するとニコニコ動画やyoutuber、アイドルなどの既存の娯楽の単なる焼き直しだという指摘が想定される。確かに、ホロライブのコンテンツを要素還元すればそれらの文化に行きつくことは否定できない。

しかし、個人の総和が社会にはならないのと同様に、コンテンツの総和がホロライブにはならない。様々な要素が掛け合わされることでホロライブ世界は指数爆発的な広がりと発展を遂げた。既存の娯楽とは質的に決定的な断絶がある。それを読み解くキーワードが、冒頭の「世界体験の拡張」と「解放」である。

ホロライブメンバーが存在する仮想世界は「生配信」と「切り抜き」という二段構造の動画によって演出される。生配信はメンバー本人が配信する動画であり、ホロライブ所属タレント32名がそれぞれ、毎日のように数時間におよぶ生配信を行う。視聴者は当然全てを視聴することはできない。そこで切り抜きを活用する。切り抜きとはファンが自発的に生配信の中で印象的な箇所を切り取り、短くまとめた動画である。これによって、視聴者はホロライブメンバーの仮想世界の全体像を把握することができる。

ただ、切り抜きは動画全体の一部に過ぎず、視聴者は欠落を想像で補わざるをえない。しかし、そのことは生配信の尺という有限性を消失させ、かえってホロライブ世界に奥行きを与える。さらには、配信と関係ないところでのメンバー間のエピソードが紹介されることで、生配信の背後にも無限のコミュニケーションを想起させる。例えるなら、画面の外でも、電源を切った後でもNPC同士が社会を営み、無限に物語を展開しているRPGだ。ホロライブにとっての配信は無限の仮想世界を覗かせる小さな窓に過ぎず、視聴者は永遠にイデアに到達することはない。

さらにホロライブは、巧みな設定とコミュニケーション方法によって、視聴者をも無限の仮想世界に接続させる。ホロライブメンバーは私たちが生きる現実にも、そのキャラクターのまま存在しているように振舞う。つまり、Aという声優が、Bというキャラを演じているのではなく、Bという現実世界を生きる存在が仮想世界にアクセスするためにBというアバターを使っているという構造を取る。twitter上でもBという存在として投稿し、エピソードトークはBとして現実で体験したものに加工して話す。無限の仮想世界が現実に染み出し、仮想世界と現実世界の境界は曖昧になる。ホロライブは仮想世界の住人としてだけではなく、拡張現実的存在としても体感される。

また、海外にも多数の視聴者がいることが、その無限拡張感に実在性を与える。視聴者は生配信を見ながら、海外ユーザのコメントをみることで、世界中で同時的多発的に同じ体験を共有している存在の気配を感じる。仮想世界と現実の広がりがリンクすることで、無限拡張にリラリティの輪郭が付与される。

ホロライブによって視聴者は自らの感覚を、仮想世界、拡張現実、全世界といった様々なレイヤーに渡る無限拡張宇宙に浸すことになる。

しかし、すばらしい「世界体験の拡張」に身を委ねながら、私はふと虚しさを感じることがある。

批評家の宇野常寛は『遅いインターネット』の中で、21世紀は工業社会から情報社会への移行に伴い、価値の中心が物品から体験に移り、人の心を動かす文化の形式も、映画のような自分とは関係ない物語をただ見る「他人の物語」的快楽から、SNSや握手会などの自分も参加する「自分の物語」的快楽に遷移したと指摘する。

その枠組を参照すればホロライブは完璧に体験型で「自分の物語」的快楽だ。無限拡張宇宙に身を浸し、生配信とSNSで日常的にホロライブメンバーと時間を同期し、推すことを楽しむ。しかもベッドの上でスマホに向かって親指を動かすだけでそれを享受することが出来る。「自分の物語」的快楽の究極到達地点といえる。

一方で「他人の物語」的快楽、つまりコンテンツ自体はどうかというと「空」だ。要素還元すればどこかで見たバラエティトークにゲーム配信、歌はカバーと固有性・新規性は乏しい。ホロライブは既存のコンテンツを飲み込み、加工して吐き出す関数だ。無限拡張宇宙は、内容自体は空虚な「コミュニケーションのためのコミュニケーション」が無限生成されることで支えられていた。

宇宙の実体が「終わらないテラスハウス」であることに私は愕然とした。

けれど、それを理解してなお、僕の推す気持ちは止まらない。

彼女たちの話は楽しいし、彼女たちが笑えば嬉しい。
歌が上手になれば拍手をしたくなるし、卒業すれば切なくなる。
ASMRを聞けばよく眠れるし、毎日配信している様子を見ると奮起させられる。
病気で配信を休めば心配になるし、ライブでは最高にぶちあがる。

決して「あえて」推しているわけではない。

このことに気づいたとき、僕は「解放」を感じた。
僕は社会的な意味や新しい価値、物品としての価値といった理屈から解放され、原初的な推すという感情への開かれた。

その強度に支えられれば、コンテンツの空虚すらも「解放」に反転できる。
「ベッドの上での親指」で得られる空虚なもので十分僕は満足できる。
その自分の矮小さを自覚することは、逆に言えば今後どのような状況に置かれたとしても幸せになれるという自信につながる。
世俗的な承認欲求からの「解放」、それは逆説的に現実世界で自由に生きる勇気になる。

こう言うと「現実逃避した社会に融和しないオタク」の量産を予感させるかもしれない。
けれど僕はその点には楽観的である。

「自分の物語」の臨界点で自らの時間をホロライブ世界と同期させていると嫌でも伝わってきてしまう。
高頻度の投稿や声を枯らした生配信、体調不良によるお休み。
彼女たちがどれだけ身を削って活動に懸けているのかが、想像力が貧困な僕でも痛いほど分かってしまう。
コンテンツが空虚な透明となった結果、彼女たちの純粋な努力だけが浮き彫りになる。
それを突き付けられて、「ベッドの上での親指」を動かす自分でい続けることがどうしてできようか。

ホロライブは「世界体験の拡張」と「解放」で自由を、そして自由の中でも再帰的に現実に向き合う強度を与えてくれる。


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参考文献

・宇野常寛『遅いインターネット』幻冬舎、2020年。

・松島倫明「HOW TO CHANGE YOUR MINDーサイケデリックジャーニーへの再出発」『WIRED VOL.38』コンデナスト・ジャパン、2020年。

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#PS2021

#遅いインターネット

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