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第20回 千人塚と龍の化石
こんにちは。阿久根市地域おこし協力隊のチャーリーこと濱田です。
今回は阿久根の南端にある史跡「千人塚」とそこからすぐそばにある「龍の化石」と呼ばれる岩をご紹介します。
千人塚とは、戦場や刑場、災害などで多数の死者が出た地にその霊を供養するために造られた塚です。
ここ大川の千人塚も同様に、建てられたのは戦国時代。
永禄11年(1568年)〜永禄12年(1567年)時のもので、薩州家6代当主島津義虎と東郷の領主東郷重尚が合戦を繰り返した際の戦死者のお墓だそうです。
63名の霊が弔われているとのことですが、千人塚という名前は名所・旧跡では死者数を10倍する慣わしで多くの方が亡くなったことを表しています。
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両軍は先代の頃から長年に渡り争いが続いておりその原因はなんと「飼い犬」だったそう🐕
大川の千人塚建立時から20年ほど遡り、薩州家5代当主実久の頃。
島津家の家臣であり大川の城主湯田兵庫成重は1匹のかわいい犬を愛育していました。ところがすぐ隣の東郷領主、東郷重治の家臣がひそかに大川に潜入してその愛犬を盗んで連れ帰ってしまいました。
これを知った湯田兵庫成重は日頃仲の悪い東郷家の仕業と腹を立て、家臣を送り愛犬を連れ去った者を殺させ犬を奪い返しました。このことから東郷重治は湯田兵庫成重、島津実久を恨み、戦いの火ぶたが切られることになりその後20年近く争いが続いたんだそうです。(参照;阿久根市史)
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何だか愚かな争いに巻き込まれ命を落とすことになった人々が嘆かわしいです。
愛犬をなぜ盗むか。そしてなぜ話し合わずに殺すのか。人間って愚かですね…
争いごとはなるべく避けたいものです。
さて、この千人塚はとても見晴らしの良い高台にあるのですが少し足を伸ばしたさらに崖っぷちのところに大きな岩が忽然と立っていて「龍の化石」という名がついています。
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パッと見は全然龍らしくはないのですが道路に分断されて反対側に胴体部分にあたる岩があるようです。(草木に覆われて全容がつかめませんが)
この龍は甑島をにらんだように立っていて、かつて村人たちからは「島取って食う」とか「甑島食う」とか言っていたそう。
高さは5mほどあり近くに行くとそこそこ迫力のある岩で、ここからは確かに甑島もよく見えます。千人塚を訪れた際はぜひこの龍の化石もご覧になってみてください🪨
☝️千人塚と龍の化石の地図はこちら