「良い人でありたい」と願う日々から、「悪い人になりたい」と願う日まで。
人は誰しも誰かの期待に応えようと必死になる瞬間があると思う。
「良い人でありたい。」
幼少期には尖って角ばかりが目立っていたはずの私は、
いつしかこの思いによる圧力によって丸みを帯びた人間になっていた。
「良い人でありたい。」
一体いつから、こんな思いが自分の中に芽生えたのか。
周りの友達をイジリながら笑いを取っていた小学生時代には、確実に「良い人でありたい。」なんて思いは微塵も感じていなかった。むしろ良い人なんてお利口さんは面白くないと思っていた。
「良い人でありたい。」
イジリが過激になる青年期、友達が虐められて不登校になったタイミングなのか。もしくは虐めのターゲットが自分に変わったタイミングなのか。どちらかは定かではないが、回想の旅を続けると、このどちらかのタイミングが大きかったように感じる。
「良い人でありたい。」
私がそう思った原点は、同調圧力から友達を守れなかった無力感と自分の不甲斐なさ、そして、自分自身が虐めの標的となる事への恐怖から生まれたものだと推測される。
「良い人でありたい。」
友達をいじり倒してワイワイしていた幼少期とは打って変わり、歳を重ねるごとに、自分の考えや想いを言葉という形にして相手に伝える時、相手の地雷を踏まないか、傷つける事がないかを深く考え言葉を選ぶようになった。
「良い人でありたい。」
そんな根底の思いから、誰に対しても公平かつ平等の接し方を心掛けていたからか、いつしか本当に心を開いて話せる友達が周りから減っていった。薄々、自分の中で友達と自信を持って呼べるような友達の少なさに劣等感を抱き始めるが、どうにもする事ができない。
「良い人でありたい。」
その思いとそうである事がいつしか絶対的な正義となっていた私は、過去、他人を大切にしてこなかった言動を繰り返してきた自分自身を全否定し、今の自分が正しいと信じていた。
・自分は過去友達に心無いを言ってしまった事を償わなければならない。
・自分のせいで不幸になった友達もいるのに自分だけが幸せになって良いのだろうか。
・過去恋愛で相手を傷つけた経験がある私は恋愛などしてはいけない。
「良い人でありたい。」
そう願った私の学生時代後半は、もっぱら自身の人生を罪を償う為のものと考え決めつけた。
他人と近づき過ぎるとつい、心無い事を言ってしまう為、近づき過ぎないように注意した。
誰かを好きになっても気持ちに蓋をした。
好意を向けられた際にはちょっとした壁を見せる事でその好意を離してもらうよう努めた。
そんなことを思いながら生きてきた末、また努力の甲斐あって気づいた時には「良い人」という称号を手に入れる事ができた。
これで良いんだ。念願叶ってそう思った時には、自己否定と繰り返し続けた謙遜と卑下によって心は歪みきっていた。
「良い人でありたい。」
社会に出てからも100人いれば100人の顔色を伺い続け、八方美人の虚構で覆い固められた人間は毎日自分自身をそうあるべきであると言い聞かせた。
いつしか本当の自分を理解している人はいないと思うようになった。
誰にも本当の私がわかるはずがない。この苦しみがわかるはずがない。
そんな考えが頭の中でしっかり育っていた事もあり、苦しくても本心で誰かに相談する事はできなかった。
「良い人でありたい。」
そう願い続けた私は、誰かの「良い人である」ことと引き換えに自分にとって「良い人である」ことを捨てきった。
「良い人でありたい。」
最近ふと思う。
「なぜ良い人である必要があるのだろうか。」
「良い人の定義とは何か。」
「良い人じゃなければ悪い人なのか。」
別に納得のいく答えが欲しいわけではない。
きっと誰しも「良い人」である側面と「良い人ではない」側面を孕んで生きているのだと思う。
「良い人でありたい。」
そう願って生きてきた十数年間の答え合わせが今の自分である。
晴れて「良い人であり続けた結果」、私の人生は大変なことになった。
私はもう「良い人でありたい。」とは思わない
むしろ「悪い人でありたい。」くらいだ。
誰かを心から好きになりたいし、全力で愛を伝えたい。
心から信頼できる友達がたくさん欲しい。
自分の人生を楽しく生きたい。
その過程で不本意に誰かを傷つける事があるかもしれない。
もしかしたら、謝っても相手には許してもらえないかもしれない。
もしかしたら、一人ぼっちになってしまうもしれない。
それでも、私は私を許し、誰かにとって私は「悪い人」であっても、私は私にとって「良い人」であることを選びたい。
これから先「悪い人」として、辛い目に遭うかもしれない。
その答えはまた十数年後にわかるのだろう。
自分を大切にしてこなかった事による辛さを知る今、「良い人であること」を手放すことにはなんの躊躇いもない。
「良い人でありたい。」と願い続けた日々が遠い過去の日として、心から愛を伝えられる皆と笑いながら、「実はそんなこと考えていて苦しかったんだよね」と話せる日が来る事を期待している。