『のじゃロリ』を遍く世界に広げよ!Vol.2
先日、『世話やきキツネの仙狐さん』の第一話がdアニメストアで配信開始された。あまりの良さに、思考回路が飛びかけ、仕事に行くのが辛くなった(飲みに行くのは辛くない。不思議)。少しでも思考回路を戻し、精神を落ち着けるために再び”のじゃロリ”の良さを伝えていきたい。
・”のじゃロリ”の本質
前回は”ロリ”と”のじゃロリ”の違いを説明した。今回のメインテーマはズバリ、『”のじゃロリ”が”のじゃロリ”である必要性』だ。あるいは『”ロリババァ”である必要性』ともいえるだろうか。であるならば、「”のじゃロリ”ではなく”ロリババァ”でええやん」と思うかもしれないが、そこは後々話題にするので安心してほしい。
長い生を生きている”のじゃロリ”たちだが、なぜ外見がロリータなのか。色気のある女性でも良いし、年配の姿をしていても良いのではないか。わざわざ内面と大きくギャップのある外見で表現されるのか。
この答えはものすごく単純に言い表すことができる。
ギャップ萌えである。
そう、ただ単純に内面と外面のギャップに我々は萌えを感じるのである。
「オイオイ、そんな簡単な話なのかよ」と思う諸兄らもいるかも知れない。だが、得てして物事の本質とはひどく単純な事が多い。”のじゃロリ”においても、その本質は先に述べたとおり単純である。
単純だからこそ、様々な角度から我々の心を揺さぶってくるのだ。
・”のじゃロリ”における”ギャップ”とは
「不良が捨て猫に優しくしている」
これはギャップ萌えの典型例としてよく提示されるシチュエーションだ。普段は粗暴で周りに迷惑をかけているような人物が、小動物にはひどく優しい。そんなギャップに人は心惹かれるのだ(もっとも、今ではありふれすぎて食傷気味かもしれないが。しかし、ありふれてしまうほどに王道とも言える)。
印象の振り幅が強いほど心に強く残る。正と負の変化量が大きいほど心に深く影響を与える効果のことを「ゲイン・ロス効果」と呼ぶ。先程例示した不良がまさにこの効果を発揮している。その逆もまた然りで、普段は優しい人物が実は裏であくどいことをしていた。そういうキャラクターは印象によく残るだろう(例:BLEACHの藍染惣右介)。
つまり、意外性というものはそれほど人に与える影響が大きいのだ。
突然だが、『印象形成』という言葉をご存知だろうか。これは対人認知(他者についてその人がどんな人物か推測したり、他者の内面について想像をめぐらせる働き)の一つである。主に外見や身振り手振り、あるいは他者の評価などの限定的な情報をもって、他者のパーソナリティーを推し量ることである。
端的にいうと、人は見た目からある程度その人物の人柄を想像するのだ。顔に傷があったり、厳つい見た目をしている人物を危険な人物だと推論したり、メガネをかけている人物を見て勉強ができそうなどと思ったことは無いだろうか。
そういった推論の良し悪しは別にして、人は得てして見た目からその人物のパーソナリティを推し量る。『人は見た目が9割!』なんてことが信じられる程度には外見を重視しているのだ。
さて、この話を踏まえて”のじゃロリ”について説明していこう。
”のじゃロリ”……つまり、外見はロリータである。そこにはいったいどんな印象形成があるのだろうか。
幼さゆえの純真さ、無垢な心、汚れない精神、素直さや無知。そこから派生して、守ってあげたいなど想起されるだろうか。これらが単純にロリキャラならばその想像はあながち間違いではないだろう。
だが、本題は”のじゃロリ”である。前回説明した通り、”のじゃロリ”の精神性は外見とは真逆のものだ。
成熟した精神からくる包容力や狡猾さ、酸いも甘いも噛み分け、知識も豊富。その見た目から想起されるものとは正反対の性質を持つ。
その見た目との”差”で我々に衝撃を与えてくれるのが”のじゃロリ”なのだ。
・”のじゃロリ”の魅力とその必要性
”のじゃロリ”と一言に言ってもそのタイプは多岐にわたる。
”貴人型”と”古風型”に大別されることは前回示したが、今回焦点に当てている”古風型”も様々なタイプに分類される。長い時を生きてきたことは共通項として持っているが、その経験の活かし方に個性が出る。
戦闘力に振っているタイプや知識に振っているタイプ。はたまた他者よりも上位に位置する神の如き存在、あるいは永い生故に生き疲れてしまった者、そして母性に振り切っているもの。多種多様である。本項では仙狐さんに代表される母性に振り切っている”のじゃロリ”の魅力について解説していきたい。
”のじゃロリ”という大ジャンルの活かし方は様々あれど、こと母性を引き出すことにおいて右出るものはいない、と個人的に考えている。
母性というものを表すシンボルは多く存在している。一番わかり易いものが乳房だろう。古くから豊かな乳房は女性、ひいては母性のシンボルとして多く取り扱われている。それは宗教画はもちろんのこと、日本最古の和歌集とされる万葉集にも存在することからもわかるだろう(”母”にかかる枕詞”垂乳根”)。少し古い表現だが、ボン・キュッ・ボン……つまり起伏のある身体も女性を感じさせる体つきとされていたことも明記しておこう。
しかしながら、”ロリ”つまり、幼女体型にはそれらの特徴は当てはまらない。起伏は一切なく(あっても僅か。”ロリ巨乳”はあくまで特異な例であり、解説は省く)、ともすれば男か女はわからない体つきだ(これも賛否がありそうだが、煩雑になるのでそういうことにしておいてほしい)。
そういった、女性性あるいは母性といったものからかけ離れた外見をしている。
だからこそ、より内面の母性が光り輝くのである。
右と左の中央にある色のどちらがハッキリ見えるか。
外見と内面そのどちらも母性に寄ったキャラクター性は、全体で見れば確かに母性あふれるキャラクターなのであろう。しかし、外見が幼女でありながら内面から溢れ出る母性。どちらがより強烈に印象に残るか。そんな単純なことでしかないのだ。
単純だからこそ、我々の奥深い部分に大打撃を残す。
そして、その内面を違和感をもたせず、さり気なく引き出してくれるのが”のじゃ”に代表される語尾である。
”のじゃ”という老人語を使うことによって、そのキャラクターが単なるロリキャラではなく特殊な生い立ち、あるいは我々より永い時を生きていることを端的に表してくれる。更にのじゃ言葉を使うことによって違う時代に生きていたことをより実感しやすくなるという効果もある。
”ロリババァ”と”のじゃロリ”の間に刻まれる大きな隔たりは、その内面の引き出し方に他ならない。
”のじゃロリ”でしか出すことの出来ない味があるのだ。
そこに”のじゃロリ”の魅力が詰まっている。そこに”のじゃロリ”である必要性が存在するのだ。
・ジークハイル!ジーク”のじゃロリ”!!
前回以上に熱くなり筆が乗ってしまったが、少しでも”のじゃロリ”の良さを伝えることが出来ただろうか。今回で”のじゃロリ”について一旦筆を置きたいと思う(ふと思い立ってVol.3を書くかもしれないが)。
今回は”母性”を主軸においている。そのため、「筆者はマザコンか?」と思われるかもしれない。その決めつけ、ちょっと待って頂きたい。
母性あふれるキャラクターが好きだったり、バブみを感じてオギャっている方を指して「マザコンかよwww」と揶揄している場面を多々拝見することがある。彼ら(自身も含め)が感じている”母性”は実際の母親を重ね合わせてのものなのかというと、そうではないと思うことが多い。”母性”と”マザコン”そこら辺についても機会があれば書き記してみたいと思う。
”のじゃロリ”はなぜ自分をここまで惹きつけるのか、その魅力や特異性はなんなのか。自身の好きなことについて深く考察することは、普段の生活では中々無いことだった。だからこそ、とても楽しく書くことが出来た。
これを読んで”のじゃロリ”を知る切っ掛けになり、好きになってくだされば幸いである。そして、自身の好きなことをより深く知ろうとする切っ掛けになっていただければ望外の喜びだ。
ジークハイル!ジーク”のじゃロリ”!!
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