修養科ロスについて

今日で修養科修了してから一週間経つ。修養科終わったらしばらくノートは書くつもりなかったけれど、いわゆる修養科ロスがひどいので思うところを述べたいと思う。
絶対に修養科ロスになるのわかっていたから6月29日から仕事に復帰するようにしていたのに、結局体調不良で7月1日から復帰になった。


今は懐かしき修養科棟


体調不良で寝ているので仕方ないんだけど修養科にいる夢を毎日見る。いかん完全にロス。人生で三番目くらいにしんどかった教育実習に行ったときも実習終わってから1ヶ月は教育実習のときの夢を見た。きつくても楽しくても自分にとって刺激的な日々が終わるとそーなってしまうのね。
一般社会に降りてきて思うこと、思った以上に日々の生活の中に毒素が多い。特に車の危険運転とか自転車が歩道を走っているのをみた時なんかね、腹が立つよ。かなりの頻度ではらだちのほこりを積んでいる。
早速効果が出て嬉しい事、結局半分しか行ってない子育て講座だったけど仕事で役立ってる。今まで、というか今もそうなんだけど、時間勝負の仕事なので回す事ばかり考えてしまうけど、ぐずったときに「待ってあげる」こと、今回意識して出来るようになった。講座ちゃんとフルで出席すれば良かったと後悔。アンガーマネジメントの回ちゃんと行けば良かった…。


突然の岡大教会


一期上の修養科生の人と話していたけど、修養科中って案外スケジュール的にも精神的に余裕がなくて、終わってから、あの時は酷いことをしたとか毎日爆走していたと反省するようになった、でもそれが修養科なんじゃないかなという話をした。
思っていた以上に私の修養科生活って余裕がなかったんだなと感じた。
私の場合は家族に天理教も修養科も反対されていたし、自分の気持ちがいつ別のものに向くかもわからなかったので、修養科が無事に終わったとしても、もう二度とここに来れないかもと思っていたから毎日必死で過ごしていたように思う。体調不良のときも「これを逃したらもう見ることはないかもしれない」「もう二度と話すことができないかも」と思って無理矢理行った。今思えば無茶したなあと思うこと数知れず。時間や機会が有限だと思っていたから頑張れたんだろうなと思った。鳴物総合練習のとき先生のお話にもあったけど教祖が御苦労をされていたときはおつとめをするだけで警察に捕えられたりする、だからおつとめをするかどうかで何日も協議する日々だった。今みたいに鳴物もおつとめも自分の意思次第で誰にも邪魔されずにできる環境、いつ戻っても温かく迎えてくれるおぢば、当たり前じゃないと気づけば日日過ごすことも懸命になれるし有難いと思える。


懐かしき、故郷を貫く鮎の川。桜が満開の頃


それにしても絶対出会うことがなかった人たちと出会うべき時に出会ったって素敵なことよね。
クラスメイトと修養科ロスの話をしていた時に、修養科が忙しくても楽しかったのは、同じ環境に支え合える友達がいたから、でも今は繋がっていてももう同じ環境ではないって言ってた。修養科って本当に特殊な環境だったんだなあ。だって何か話したいことがあっても、どうせまた明日会うし明日でいっか、会えなかったとしても明後日があるからなと思ってた。

私は修了日早々に地元に帰ったけれど、修養科生の皆様の中には大教会実習なるものに行った方も多かったのではないでしょうか。大教会長様のお話とか役員講話とか大教会の歴史の勉強とかひのきしんとか修練とかにをいがけとかね。クラスメイトのところの大教会実習は5日間あったらしい。お疲れ様です。まだ修養科中の一期、二期下の仲間たちは今どうしているんだろう。


炊本で働いてる皆さん幸せになってほしい


体調不良2週間目を終わろうとしても全く改善されなかったので再び病院に行ったところ、身上再発、副鼻腔炎のダブルパンチと診断され現在伏せている。横にたくさんの先生方に、修養科終わって帰ってからが本当の修行と言われてきた。私が身上再発したのも周りが毒素だらけなのも何かしら見直す必要があるとのメッセージなんでしょう。教会長から、修養科の時には毎日目まぐるしくいろんなことがあったから、ゆっくり心を鎮めて振り返る事もできなかったんじゃないだろうか。修養科で学んだこととかをふりかえってみよう。と言われた。
おつとめはしているのか?と教会長に聞かれたけど、起きておつとめをしたらゲボした。


みんなで食べたアイス



クリスチャンの先生やお友達はよく、「神の思召」とか「これは神様が与えて下さった試練だ」と言って話をしていた。当初は「なーに言ってんだ。思召なんてないよ、偶然だよ。」と思っていた。私は大学で聖書研究会出席が必須になっていたので、根っからのクリスチャンの皆様に無理矢理話を合わせるべく何とか勉強していたことを思い出す。修養科でお道の専門用語を割とすぐ理解できたのはこの頃の経験が活きていると思う。そういえば感話大会でも思ったけど外国の人って結構信仰する宗教転々としている人いると思いません?歴史的にみても王族とか改宗してるし。自分に合うと思うものを選べばいいんじゃないかな。教祖もキリスト様も池田先生も隆くんも元は別の宗教信仰してたし。お道に疑問を持ってる人、レッツ改宗。

お道でも、お引き寄せとか、神様は乗り越えられない試練は与えられないという話、しますよね?言ってること同じやんけ!と思って過ごしてきたわけだけど、つまりは人間の救いはこれに集約されているってことなのではないかな。つまりつまり、私が新しい宗教を作って教えを広めたいなら、ここを推していくべき。辛いと思うことも奇跡だと思うことも全知全能の神から与えられた試練だし思召だってこと。中学一年生のとき、将来の夢に「新しい宗教を作る」って書いて三者面談で「これは…えっと…」と担任の先生に困惑されたことがある。
どうして修養科終盤に来て体調不良でやりたいこともできず不完全燃焼、悔しい悔しいと思うことになってるのか。それは物語みたいに「修養科楽しかったね!おーわり!ハッピーエンド!」ではなくてこれからも楽しいことも泣きたくなるようなことも含めて人生は続いていくのだよと教えられているってことなのかなと思った(洗脳済み)

おやすみなさい。


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