はじめての秋季大祭前日
どうしてどうしてこんなにお金を貯められないのだろうか…それは使っているから。
かなり久しぶりに感じたけれど大したことない1ヶ月半ぶりのおぢばがえり、今回ははじめての秋季大祭。
夜行バスで博多から来たけど出来ればもう夜行バスには乗りたくない。でも安いから使う。
おぢばがえりをするときに、天理駅で待っていてくれる人がいるときとそうでないときで改札から出る時気持ちが全然違う。待ってくれている人がいないときはなんか、アウェー感があるというか。
やっぱり私にとっておぢばってまだまだふるさとという感覚ではないんだろう。秋季大祭前日ということで沢山の人がいた。こんなに沢山人がいるのをみたのは教祖誕生祭が最後かな。おやさと書店も会計に結構並んだ。
今回は詰所ではなくホテルに泊まったので自由度が高い。
友人は明日からの帰参ばっかりだったので夕食は1人で食べる予定だったけど、本通りで修養科のときのクラスメイトに再会して一緒に食べることに!ちょっと寂しかったから良かった〜。
夕勤に行って三殿参拝、高井先生を拝見出来て喜んだ。そのあと陽気屋さんでお好み焼きと焼きそばを食べた。陽気屋さんずっと気になって行けてなかったので嬉しい!いつもはもっと早く閉まっていたように思うけど今日は帰参者が多いので遅くまで開けていてくれていたとのこと。またお願い勤のために再び参拝。
今日は夕勤あともしばらく教祖殿も祖霊殿も開放されていたので良かった。昼間は暑かったけど夜は少し肌寒い。
なぜ天理に来てアウェー感を感じるのか考えてみたのだけれども、天理教て帰属意識が強いと思いませんか。
キリスト教の教会に通っていたときはそこまでアウェー感を感じなかった。いつどこの教会に行っても、行く教会級に変えても特段何もなく。洗礼受けた人は違うのかもしれないけど。でも天理教て基本的に最初ににをいをかけられた教会から所属が変わることってよほどのことがない限り無いですよね。そしてハッピにみる、どこの所属のどういう身分か。これが無いとアウェー感を感じる。修養科生の時は自分がどこの直属の修養科生であるとハッピが宣伝してそれが存在証明のようになった。特に修養科から入った私にとっては物理的な問題で自教会に頻繁に行けているわけではないので、修養科生じゃなくなった時にハッピを脱いだ自分がここで何なのか、この組織においてこの街においての自分の定義がわからなくなり、アウェー感を感じることになった。修養科生94日目修了後に感じたアウェー感、今日感じたアウェー感。
こんな変なことを考えているのは私だけかもしれない。
明日の秋季大祭、前夜祭行けるところまで堪能する!
おやすみなさい