そこに居てもいいということ

 クリープハイプ。私がこの世で一番敬愛してやまないバンドの名前。

 クラスメイト全員を「こいつら馬鹿だな」と見下しながら過ごし、自分で自分の学校生活を退屈にしていることに嫌気がさしていた高校時代、憧れの先輩に教えてもらった曲中の「明日には変われるやろか」という歌詞に惹かれ、丁度その時期に発売された『泣きたくなるほど嬉しい日々に』を買いにタワレコに走った。

 それからの毎日、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間に両耳にイヤホンを差して、周りをかき消すように彼らの音楽を夢中で聴いた。それを聴いているときだけは、一人で居ることを誇りに思えた。

 時が過ぎ、そんな私も大学2年生になり将来のことで悩んでいたとき、彼らの新しいアルバムが発表された。「夜にしがみついて、朝で溶かして というアルバムが出ます。」尾崎さんがそう言った9月8日の東京ガーデンシアターは長い拍手に包まれた。私は一人でガッツポーズをした。

 アルバムが届いて開封し、指紋がつかないよう気を付けながらCDをプレーヤーにセットするあの瞬間のために、私は生きてるのかもしれないとすら思う。本当に思う。


 クリープハイプらしいギターリフから始まる、01料理。

「愛と平和を煮しめて 味覚を馬鹿にして笑う 浅ましい朝飯だ」

 言葉遊びと世間への皮肉と比喩の詰まった歌詞がメロディーにのって流れてくるこの瞬間、私の中でやかんが沸騰したような気持になる。尾崎さんはこれまでも、多分これからも、決して「愛と平和」について歌わない。ラブアンドピースを大声で歌うより「腹が減る」ことや「リンスを忘れる」ことを歌う。手が届く範囲の日常の中にある気持ちを言葉にしてくれるから信頼できる。一曲目からその意思を表明してくれたみたいで嬉しくなった。


 02ポリコはベースから始まる。(私は趣味でベースを弾くので、個人的に嬉しい。)

「ポリコは法定速度で いつもの道を走ってた 正しさの先を曲がったら 言わない言わない 言わないから」

 この歌詞は、クリープハイプの音楽を表していると思う。「正しい」の奥に皆が隠している人間らしいもの、憎悪とか苛立ちとか恥ずかしさとか情けなさ、そういうものを尾崎さんは歌う。四人の音楽に正しいとか間違いとかそんなの関係ない。まず音楽にそんなの関係ないと思うけど。

 ファッションで語る馬鹿野郎たちが増えて息苦しい世の中に突き刺す、というより、「そんな奴ら放っておこーぜ」みたいな諦念が伺える。それでも歌っている時点で気にしてしまっているんだけど。それこそが人間らしいなと思ったりする。MVのヨゴレバスターズは清掃し終えた後自分たちが汚れている。またそのヨゴレを見つけた人たちに雑巾で擦られるのかな。「でも消えない」から大丈夫。


 私はクリープハイプ四人の演奏はもちろん、一緒に居るときの空気感や太チャンでの会話のリズムが好きだ。四人にしかない間がある。たとえば、「二人(尾崎さんと拓さん)がファイナルファイトの話してるのすごい好きなんだよね」って心底嬉しそうに話す幸慈さんと、時々うなずきながらお酒すすむカオナシさん、楽しそうに無我夢中で話す尾崎さんと拓さん、とか。きっとそういう「間」がどの二人にもある。

 ダイアン二人の歴史を歌詞にすることは烏滸がましいから二人の言葉にできない間をそのまま曲にしようと思った、と尾崎さんが仰っていた03二人の間。力の抜けたメロディーがまさにダイアンのお二人の空気感のよう。何か悪いことをしてもお尻振りながら「ごめんや~~ん」って謝ってるみたいなそういう感じが癖になる。レコーディング映像を見てから、「そのままで」の部分がくるたびににやついてしまうのは私だけではないはず。


 バスドラムのリズムにのった「年中無休で生きてるから疲れるけどしょうがねー」という歌詞とアコースティックギターの音色とともに、心地良いそよ風が吹いてくるような04四季。配信リリースされた当時、コロナ禍で四季を感じられない生活の中でクリープハイプが音楽で季節の流れを表現してくれたことへの喜び、新生活が始まる不安と緊張を解くような歌詞をくれたことへの安心感、今でも覚えている。

 この間ふたご座流星群を見ようと深夜に一人で外を散歩したとき、ぴんと張り詰めた冷たい空気の心地よさと星空の綺麗さに、なんか急に無性に生きててよかったと思った。疲れるしたまにはどっか行きたいとぼやく日々の中でもそういう瞬間が確かにあって、その積み重ねが私を生かしてくれる。そういう瞬間はあまりにも瞬間だからすぐに忘れてしまうけれど、「忘れてたら忘れてた分だけ思い出せるから好き」かもしれない。それを教えてくれた大切な一曲。


 初めて聴いたときこれまでのクリープハイプからのサウンドの変化に正直戸惑ったことを思い出す、05愛す。しかし雑誌やウェブ上のインタビューを読んだうえで、このアレンジは今のクリープハイプが強いからこそなのだと今では云える。あえてドラム・ギター・ベースを鳴らさないという選択がロックバンドにできるということは、鳴らすことに自信があるからなのだと思えるのだ。「消せるということはあるということ」だから。

 曲を聴くと、サウンドは変化しても歌詞のなかの主人公は変化していないことも分かる。逆にブスとしか言えないくらいに愛おしい、それすらも言えていないまま終わってしまう。何もできない情けなさと踏み出すのが怖い臆病さが日々の自分と重なってひしひしと沁みる。捻じれてもう戻らないのは鞄の紐だけではなくて二人の関係性もで、あまりにも切ない。この切なさを中和するためには、あれくらいのMVのシュールさが必要なのかもしれない。


 メルヘンな音から始まったかと思いきや、疾走感あふれるクリープハイプらしいサウンドが走り出して不意を突かれる06しょうもな。この曲はクリープハイプを心から愛する人へのバンドからのラブレターだと思っている。ストレートな愛の言葉はないけれど。

 TikTokの企画で尾崎さんが「クリープハイプの曲は届く人にだけ届けばいいと思っている」と仰っていた。彼らの曲は私を「おまえ」にしてくれる。クリープハイプ対わたし一人。世間は正しさを必死に求めている。愛すをぶすと読むことも、人をおまえと呼ぶことも、正しさではないのかもしれない。でもこれは、正しさの先にある私たちの関係性の中だからできること。クリープハイプの音楽はずっとわたし一人に向き合ってくれるから、応えたくなる。「意味のない音の連続」にのった皮肉に塗れたラブレター、いつか世間様に届きますように。


 「どこにも行かない悲しみとどこにも行けないあたしの事」を歌っている七曲目 07一生に一度愛してるよを聴いた瞬間、尾崎さんずるいな、全て見透かされているな....と思った。バンドと恋人を比べるなんて発想、普通できない。そのうえで初期の方が良かったと嘆くファンのもやもやを掬い上げるなんて、これはもう敵わない。06しょうもながクリープハイプのファンに対するラブレターだとすれば、この曲はクリープハイプのファン「だった」人への皮肉を込めたラブレターだと思う。尾崎さんの、他人を諦めきれない愛おしさ感じた。


 08ニガツノナミダの30秒ver.を携帯会社のCMで初めて聴いたとき、私はまさに「あーあ、魂売っちゃった。」とガッカリした太客のひとりだった。これまでクリープハイプを好きでいて落胆したのは後にも先にもこの一回なのだけれど、このガッカリもフルver.を聴いた瞬間に裏返って、仮にも一度彼らに失望したことに対して申し訳なさに苛まれたことを覚えている。歌詞でまんまと言い当てられた恥ずかしさにも。

 CM尺から外れた瞬間の転調と歌詞の言葉遊びがあまりにも的確で、不意打ちだった。

やりました よくできました ちゃんと目を見て手を取り合って
30秒真面目に生きたから 残りの余生は楽しみたいなら
しばられるな もうしばられるな でも「しばられるな」にしばられてる
あいつ魂売りやがったって 使い放題だから安心だ

 そこには、タイアップの制約とファンの気持ちを華麗に掌の上で転がした末に皮肉の込もる攻撃的な曲が見事に成立していた。私は尾崎世界観という表現者の仕事ぶりに喰らった。いかにもクリープハイプらしさ溢れるギターリフから曲が始まるという点でも、CMというパブリックな場で彼らの爪跡を刻むという攻撃性が伺える。しかしフルで聴いて初めて、一見触れたら怪我をするような鋭い棘に包まれたこの曲が、その棘の中にファンへの愛を湛えていると気付く。


 私は「あの頃」に縋って綺麗な思い出を引きずったまま新しい環境を拒んでしまったり、自分のことで精一杯になって何かを待つことしかできなかったりして、情けなさに落ち込むことが多々ある。アルバムも終盤に差し掛かったところで特徴的なイントロから始まる09ナイトオンザプラネットは、そういうことを歌ってくれている気がするから好きだ。いい意味で大きな進展がなくて、同じ場所に留まることを肯定してくれてる曲に感じるから。主人公もあくまで「ちょっと思い出しただけ」で、誰かに連絡したり深い感傷に浸るわけでもない。大きなことをしない日もある、それでいい、と言ってもらえているような気がした。

 個人的に、時間が経つにつれていつのまにか変わってしまった人間関係が増えた。一日を朝、昼、夜、と区別するのが人間だけなように、人間関係も感情もきっとそうで、明確な基準点や正解はどこにもないし境界はぼんやりしている。クリープハイプの曲は0から1の一歩を求めないし、その場所に居ていいということをその場所で居ていいという言葉を使わずに表現する。アルバムの表題曲にそんな曲を選んでくれたことがありがたかった。


 カオナシさん作詞作曲の10しらす。尾崎世界観の日に狐のお面を被ってお茶目な振り付けとともに披露した姿を思い出す。私はこの曲のイントロの鈴を聴くと、頭の中を、整列した真っ白なしらすたちが右から左に行進していく。カオナシさんのつくる曲は童謡らしさがあり、尾崎さんと対照的なその飄々とした歌い方と相まって日本的な小気味悪さ・妖しさを感じる。日本人形の髪の毛が人知れず伸びている、みたいな。別世界にトリップさせられたような不思議な気持ちになって、癖になる曲。


 アルバムの中で末聴感と異色の存在感を漂う11なんか出てきちゃってる。「偶然ネジが緩んじゃって」のゲシュタルト崩壊が起きるし、もはや途中から日本語に聴こえなくなる、洋楽かと感じ始める。歌詞をしっかり聴くファンが多いバンドだと自覚していながらたった一行の歌詞を提示する挑戦が面白い。音を聴くことが楽しい曲。

尾崎さんの語りの中の

「あ、今お前って言っちゃいけないんだけどさ、お前にだけはお前って言うね だって俺とお前の関係性があるんだから、それは許されるよな?」

という部分は06しょうもなの「お前」と重なるのではないかというメッセージを勝手に受け取った。


 12キケンナアソビはクリープハイプの代名詞とされるエロが一面に出ている曲だけれど、同時に切実な人間らしさも詰まっていると思う。特に好きな

「馬鹿みたい 馬鹿みたい 馬鹿みたいだ私」

 この部分には、「夢みたい」な状況で舞い上がって、期待していたのは自分だけだったことに気付いたときの情けなさと恥ずかしさ。そんな自分を客観視してしまう自分の無駄な敏感さ。もう元に戻れない関係性を築いてしまった絶望感。多くの人間が経験したことがあるだろうあの感情が歌われる。好きな人とどんな形でも一緒にいたい、そう思ってしまうことは否めないし、思ってしまった事実は消せない。無かったことにできない恥ずかしい感情も彼らが掬い上げてくれるから報われたような気分になる。


 ヘッドフォンで聴くとLとRでズレるギターによってモノマネを表現しているのかと思っていたけれどメンバーにその意図は無かったと判明した13モノマネ。バンドと聴く側のズレもあったと分かって面白かった。ズレていたのは曲の中の二人だけじゃなかった。

 できてしまったモノマネと、できなかったモノマネ。あまりに切ない二つのモノマネの対比が苦しい。歌詞だけを読んでも二人の日常が想像出来るような歌詞はまるで小説みたい。ボーイズENDガールズに続いて流れたときにメロディーが繋がって胸が熱くなるけれど、続編を書けるくらいに生き生きと、曲の中の二人が尾崎さんの頭の中で生活を営んでいたのかも、と想像する。 

「違うところに怒る不幸せ 違う気持ちを許す幸せ」

 私はこの言葉が好きだ。他人を自分とは分かり合えない存在だと分かったうえで、それでも知ることを諦めない尾崎さんの愛情が滲み出た部分だと思うから。私もお守りのように抱きしめて生きていきたいと思う歌詞のひとつ。


 コロナ禍で14幽霊失格のMVが発表されたとき、白背景のシンプルな演奏シーンを見ただけで涙が勝手に溢れてきたのを鮮明に覚えている。ライブで演奏する四人の姿を約二年見ていない私にとってはそれが、クリープハイプが今も本当に存在するのか疑うほどに、乾いた心が求めているものだった。

「分けて 悲しいことも苦しいことも 怖いどころか嬉しいんだよ」

 人との接触が急激に制限された時期に、大好きな声で歌われるこの言葉はあまりにもずるかった。凝り固まった心を溶かしほぐしてくれるこの曲はデジタル配信のみでまさに幽霊のように掴めないものだった。でも今は、CDとなって私の手の上に確かにある。この曲を聴くとライブが延期され続けたあの日々を思い出して苦しくなるけれど、それ以上に私と「二つだけ」でいてくれたこのバンドの音楽の温かみを感じられるから、大丈夫。タク飲みや太チャンや尾崎さんの小説は、あの時の私にとって支えだった。

 そんなことを考えながら、この間サークルのライブで僭越ながらカバーさせていただいた。ラスサビ前のベースソロが、火の玉の増えるような感覚になるのでお気に入り。クリープハイプがきっかけで始めたベースで、クリープハイプの音楽との思い出が増えて嬉しい。

 

 そしてアルバムの最後は、日が差してくるような柔らかいイントロから始まる15こんなに悲しいのに腹が鳴る。今の私には

「夕暮れ伸びる影 逃げてもついてくる 仕方なくて歩み寄って 逆に逃げられて」

この歌詞が無性に刺さる。どんなに自分が情けなくても自分自身からはずっと離れられなくて、自分と向き合おうとしても思い通りにいかない虚しさばかりな毎日と重なるからだ。でも、腹が減るということは生きている証、悲しみも生きているからこそ感じられる感情。色々あるけれどそんな毎日の中でも「生きたい生きたい 死ぬほど生きたい」。そう思えるのはこの感情を尾崎さんが歌で掬い上げてくれるからだ。リフレインするアウトロを聴いていると、まさに夜明けが朝に溶けていくときの微睡のような温度感と、家に帰らなければならない夕方5時のチャイムのような寂しさを感じながら、そのまま曲が終わっていく。


 初めてクリープハイプを聴いたときに惹かれた「明日には変われるやろか」という歌詞は、あくまで変わることを望んでいるに過ぎない、変われずにいる女性の歌だった。そしてメジャーデビュー10周年を迎えたあのバンドは今でも、「夜にしがみつく」ことを堂々と歌っている。一人で立ち止まってしゃがみ込んで何もできない自分の横に居てくれるみたい。


クリープハイプ、いつもありがとう。言葉を届ける素敵な企画も、ありがとう。これからもよろしくお願いします。

                    2021年12月30日 蒼

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