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姐姐と妹妹

2002年9月、私は初めて中国を訪問した。
きっかけは「あなたには現地が見えていない。」という教授の一言であった。主に書籍やインターネットから情報収集をしながら中国の地域研究をしていた私は、その真実をついた言葉に何故か大泣きした。夏季休暇を利用して、まずは中国全土を見て回ることにした。

これまで旅行といえば、家族や友人との旅行を指すものだと思っていた。大勢の日本人と共にツアーで出かけ、移動は大型の観光バス。「名所」を巡っては記念写真を撮る。移動中はほぼ昼寝に費やし、ところどころに挟まれる免税店のショッピングで起きだしてはお土産やブランド品を買い、ツアー用にアレンジされた食事を一斉に並んでとる。
一人で旅行をしたいと思ったのは、そういういわゆる「観光」ではなく、自分が研究対象とした中国はどんな国なのか、現地の人々がどのような暮らしをしているのかを身近に感じたかったからだ。それに加えて、何も助けが得られないところで一人でやっていくことができるか、という度胸試し的な面と、両親からの精神的な自立をしたいという側面もあった。

初めての1人旅行、成田と北京の往復航空券だけ買い、まずは1カ月で行けるだけいろんな都市に行ってみようと、勢いで北京首都空港に降り立った。中国語もそこまで勉強せず、いざとなれば筆談で何とかなると高を括っていた。しかし、それは空港から北京市内へ移動中に、いきなり三台のタクシーの玉突き事故に巻き込まれたことにより、無残に打ち砕かれた。私は真ん中のタクシーに乗車して前方車両に追突、後方車両から追突されたが、無傷だったのが不幸中の幸い。偶然前のタクシーに乗っていた日系企業の男性に警察とのやり取りを助けてもらい、ことなきを得た。しかし、これから1カ月かけて中国を巡ろうとわくわくしていた私の心は一転、不安で押しつぶされそうになった。心配する親の反対を押し切り旅立ったので、親に泣き言を言えるわけがない。そんな鬱々とした気持ちをリセットするために、まずは北京を出発しようと考えた。貴州省や四川省など中西部に行きたかったので、まずは広州を目指すことにした。

到着2日目、ホテルの受付で教えてもらった広州行の電車が発着するという「北京西駅」に向かった。しかし、駅は途方もなく大きく、大勢の人でごった返している。子どもにカップラーメンを食べさせているお母さん、ゴロンと横になっている労働者風の男性、談笑しながらひまわりの種を食べては殻を床に捨てている家族。どんな冒険が待ち受けているかとふくらむ期待とは裏腹に、そこには、衝撃を受けるほどに人々のごく当たり前な「日常」があった。むしろ慣れないバックパックを背中に、ガイドブックを手にして途方に暮れる私の方が非日常な存在であった。

改めて日本の漢字と簡体字がここまで違うことに驚く。駅構内のサインを見てもいまいち切符の買い方がわからない。筆談で道行く人に聞いてみたが、指差して何かを教えてくれているのだが、全く理解ができない。そうこうしているうちにどんどん駅の奥に入り込んでしまい、大勢の学生であふれる広場に出た。

落ち着いて見渡すと、学生たちはいくつものブース毎に分かれて座っていて、看板には大学の名前が書いてあった。それならば英語も多少通じるかもという淡い期待も胸に、あるブースの学生に筆談で聞いてみると、何人か学生が集まってきた。みんな親切にノートに書いてくれる。簡体字でもある程度理解ができ、漢字で意思疎通が出来る喜びで高揚した。
学生たちも迷い込んできた日本人の学生を珍しがってくれ、一緒に写真を撮り、話していると、学生ではなさそうな30代前後の女性が側に来た。電車の切符売り場に連れて行ってくれると言う。音楽大学のピアノの講師をされているとのこと。先生のご厚意に甘えて連れていっていただくことにした。

切符売り場は横入りする人たちで行列が崩れ、「おしくらまんじゅう」状態だった。みんなが急いで切符を購入しようとして叫んでいる。どこに並んだらよいかわからず途方に暮れる私とは裏腹に、先生は器用に人の波をくぐり、時には何かを叫びながら何とか売り場に到達、翌日夕方の硬座の切符の購入を手伝ってくれた。切符を購入するのがこんなに難易度の高いことだとは知らなかった。その後、先生が昼食に誘ってくれたので、喜んでついて行った。駅の近くの牛肉麺屋さんで筆談ではあったが話は弾み、書いては食べ、食べては書いた。その後は、駅近くの百貨店を見て回った。先生は切符の時間を見て、明日お見送りに来るから、4時にホテルに迎えに来る、と何度も念押ししながらノートに書き、その日は別れた。

北京到着早々交通事故というハプニングはあったものの、北京西駅で偶然出会った先生に助けられて広州までの切符も購入できた。異文化の中で見聞きし、食べ、呼吸をしている、生きていることが新鮮に感じた。言葉も通じず食べ物や水を買うことにも一苦労する。日本では実家暮らしで何の不自由もない生活から飛び込んだ現実に試行錯誤しながらも、勇気を振り絞って自分の欲求を全身を使って表現する。人々の優しさに触れて「ありがとう」と言う。切符を購入する、という日本では取るに足らないことであっても、ここでは緊張でひりひりする。期待感に胸が膨らんだ。

到着3日目、広州への移動日。日中は北京市内を1人で散策し、夕方にホテルに戻った。ほどなく先生は現れて、一緒にタクシーで北京西駅へ。車内で、ノートに覚えたばかりの「多謝」と書いた。先生は首を横に振りながら、にこにこ笑っていた。日本から持ってきたものは全て身の回りの必需品ばかりで、お土産に良さそうなものがない。けれど、何か渡したくて、レトルトの味噌汁を先生に渡した。先生は喜んで鞄にしまうと、さらに鞄からストッキングと金色の板を私にくれた。板には仏像の絵が描いてあり、「一生平安」と印字されていた。そして、私からノートを受け取ると、私の顔を指差しながら「你是我妹妹 (Ni shi wo meimei)」とゆっくり言いながら書いた。そして、「我是你姐姐 (Wo shi ni jiejie)」と自分を指して言った。家族以外に「お姉さん」「妹」という風に言ってもらったことがとても嬉しかった。先生とは昨日会ったばかりなのに、古くから知っているかのようで、一緒にいて居心地がよかったからだ。

北京西駅に到着した。先生は電車の中で食べるためにと、大量のお菓子とアヒルの舌の燻製とりんごと桃を買ってくれた。お金を支払うと言っても決して受け取ってくれない。電車の出発時間が近づき、電光掲示板にホーム番号が表示された。そろそろお別れの時間だ。「謝謝」と言いながら、思わず涙が出てしまった。「謝謝」「多謝」以外の語彙を知らない自分がもどかしい。先生は最後まで笑顔だった。金色の仏像のお札を指し、何度も「一生平安」と胸の前で手を合わせた。広州に深夜着のため、最後まで「小心」と筆談で心配してくれていた。そして、改札から姿が見えなくなるまでにこにこ手を振ってくれていた。

日本に帰国後、改めて先生に辞書を引きながら手紙を書いてみたが、しばらく経ってから宛先人不明で戻ってきてしまった。先生は元気でいらっしゃるだろうか。中国も日本も言葉が違うだけで同じ人間。言葉が通じなくても心で繋がれるということを先生に教えてもらった。今だからこそ伝えたい。
先生、姐姐。心からありがとう。

※2018年6月 日本橋報社 忘れられない中国滞在エピソードへ応募した原稿を一部改変

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