子育てにおける人格形成の考察 〜抑圧から容認へ、そして人格の保護者へ〜
先日、「人格は球体のような人格が理想的で、薄いコインのような二面的人格から膨らましてゆかねばならない」と考える記事を書いた。だが、昨日ふとした出来事で、それの逆説的な考えに支配されたため、備忘のために書き記そうと思う。
そのような思考に至ったのは、先日の出勤途中。コロナの緩和を受け完全在宅制が終了し、週3日出勤する制度に切り替わり、駅までの道のりを遠く感じながら歩いていた時だ。少し息を切らしながら横断歩道で信号待ちをしていたところ、お散歩中の保育園児達が前を通り過ぎた。自分よりもずいぶん若い保母さんに手を引かれ、道を歩く10名程の2歳ぐらいの子供たち。私の前を横切る時に、子供たちは私を見上げ無表情で手を振る。それを見た他の子供たちを次々に手を振る。軽く息切れしたおじさんに向かって、無心に振る。ただし、その目的は、表情からは一切感じられない。私に笑顔を要求する事も、構ってもらう事も求めてはいないようである。強いて言うなら、「そこに山があるから」ならぬ、「そこにおじさんがいるから」。シャイさも、警戒心も何も感じさせない、ピュアな心の逞しさ、懐の深さを強く感じた。
私はこの子供達の姿を見て、「人の人格は、生まれてきた時は傷一つない完璧な球体だが、人生経験によってその球体が凹み、傷つき、様々な形に変形変してゆくものなのだ」と学んだ。抑圧的な環境で育つと、人格がペチャンコにされてコインのようになる場合もあるだろうし、幼少期の強烈な経験によって、玉のような形をしているのに、見えない角度に大きな傷を負っている場合もあるだろう。また、厳しい規則の組織の中で長年過ごし適応する中で、自らの人格を歪な形に曲げ、他の場所には適応出来ない形になってしまった人もいるであろうと思う。
子を持つ親としては、子供の人格を極力丸いままに育ててあげたい。なぜなら、大人になって優れていると感じる人々と、あの保育園児達から感じた逞しさ、懐の深さが実に類似しているからだ。昨今、様々なスキルを身に付けさせるために、複数の習い事に通わせ、躾と称して人格を矯正して技を仕込む事があるが、それは全て親の勝手なのだろう。子供が自分の管理下にいる間行儀良くしてもらい、子育てを楽にするためでしかないのであろう。自分たちの手元から巣立ち、一人で歩んで行く子供の人生を通しで考えたとき、逞しく強い人格である事はなによりも助けになるであろう。
そう考えた時、「子供の人格を丸く育ててあげたい」という考えから、「子供が持っている丸々とした人格を、親が必要に応じて保護してあげなければならない」と考えるようになった。特に幼児期に関しては徹底的に守ってやらねばならないものなのだと、保育園児達の表情から学ばされた気がする。なぜなら、彼/彼女らは玉のような美しく強い人格を持っているからだ。
未成年の子供を監護し、教育を与える義務を帯びた人のことを「保護者」と呼ぶらしいが、物理的な危険から保護するだけではなく、彼/彼女らの「人格」を適切に保護してあげることも、保護者の役割なのであろう。