大学の授業は「きっかけ」でしかないのだが
例えば、100分の授業を15回受けたとして、言語学とか日本語学とかいう学問分野の何パーセントを知ることができるのだろう?
教えている側から言うと、それは1%にも満たない。てか、100%を語ることは、そもそも教えている側にもできない。
でも、学生側からすると、15回の授業で言語学のなんたるかが分かる、日本語学の概要が把握できる、というような気分になる(なりたい)のだろう。このことは、学生たちのコメントを読んでいるとよく分かる。彼らの感想の中には「今日は●●を学んだ/習った/知った…」というような、「授業中にこれこれを得た」という宣言が多い。
大学に限らず、授業は「きっかけ」でしかない。高校のときに漱石の『こころ』の抜粋を読んだように記憶しているが、あれを読んで、「今日は『こころ』を読んだ」と言って先に進まなければ、『こころ』を読んだことにはならない。数学を勉強して、あとの人生の何の役に立つのか? と公言する人は、そのことについて自分なりに考えてみたことがないということを宣言している。
大学の教育は学びが個々に別々に駆動するように仕掛けられていて、授業に参加したそれぞれが、異なる反応の仕方をして、それぞれのやり方でその反応を自分なりに深めていくことが意図・期待されている。
今日の授業を聞いて、あなたは何を思い、どのような疑問を抱き、その疑問に対してどのような解決を試みたか? と、いうようなことが期待されている。決して「学び」は授業内での受動的な活動のみでは完結しない。
ということを、今学期は全ての授業で口に出している。「授業は「きっかけ」でしかない」と。
自分が学生だったときのことを思い返しても、そんなこと言われてもと思うのが当然だと思う。ただ、そこにいた何人かが、授業の何回かに一回でも、小さな反応をしてくれるだけでも、これを言い続ける意味はあるのではないかと思っている。