魯迅「阿Q正伝」1
恥ずかしながら、初めて読みました。ちょっと前に。んでもって、よく分からなかったのでもう一回読んでまして、ほーほーなるほどと、鳩の脳みそで理解したことをちびちび書き記そうかと思った次第。
阿Qという人物を主人公に据えています。何だこの名前。これは、彼のことを正確に知っている人は誰もいなくて、阿で始まってQで発音されるなんちゃら言う人、のお話です、というようなことです。
つまりそれほどまでに、主人公は身分が低く、誰からも記憶されないような人物であるとされています。
人々は「仕事に雇うときとからかうとき以外は阿Qに興味がなかった」。(104)
一方、阿Q自身はとても自尊心が強い人物であると言います。村で偉い人は偉い人の子供だから偉いのだ、阿Qは、自分の子供ならもっと偉くなるはずだと考えます。城内の人のことも見下します。ものの呼び方が村のものと違う。鯛の唐揚げには五寸ほどの葱を添えるものだが城内のやつらはみじん切りにする。おかしな話だと思っています。村人は村人で城内へ行ったことがない田吾作だと思って馬鹿にします。
街のごろつきたちは、阿Qを見つけると「コツンコツン」と彼の頭を壁にぶつけるのでした。
けれども阿Qは「精神的勝利法」によって、彼が勝ったことにしてしまうのでした……
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阿Qという人物像はどのようなものでしょうか。
身分も低く、頭もよくない。何かに向かって努力するわけでもない。
なのにプライドだけは高くて、なにかと理由を付けて人を下に見る。
しかもその理由はお互いに矛盾している。でもそれには自分では気づかない。
負けは決して認めない。負けたとしても心の中で勝ったことにしてしまう。
こういう気分って、多かれ少なかれ、自分たちの中にあるんじゃないかなと思うのです。素直に人の成功を喜べない自分がいます。成功した人を見ると、なにかと理由をつけて、なんとかしてその人よりも自分は上であると思おうとする自分がいます。
ネットの世界を見ると、阿Q正伝はいま書かれた? と思うような人々で溢れています。
「熱くなっちゃって」とか言って他人を冷笑する。「意識高い系」ね、とか言って馬鹿にする。「論破」という、意味の分からないことばを使ってマウントをとる。最近、耳を疑うことば「ノイジーマイノリティ」というのまで出てきました。
魯迅は、当時の中国の状況を憂いて、阿Q正伝を書いたと言われています。
このお話は、いつの世にもいそうな、「我々」を描いているのかもしれません。(つづく)
【本日のイラスト】
hondashizumaruさんから。ありがとうございます。